【飛鳥時代完全まとめ】年表付で簡単にわかりやすく解説[日本史B]

飛鳥時代

飛鳥時代あすかじだいとは、西暦で言うと592年~710年までのことです。

まずは年表で飛鳥時代が日本史全体のどの辺りなのかをチェックしておきましょう。

なお文化史や律令制度の詳細は割愛かつあいします。

飛鳥時代の年表

水稲耕作の本格化、金属器の使用、弥生土器の使用

前期(4世紀)・中期(5世紀)は前方後円墳中心、後期(6世紀)は円墳や横穴墓が中心

飛鳥時代

蘇我氏 vs 物部氏、蘇我氏の権力独占、律令制度の導入と大化の改新

目次

飛鳥時代の東アジア情勢

飛鳥時代の朝鮮半島情勢
飛鳥時代の朝鮮半島情勢

飛鳥時代を理解するには、まず前提として飛鳥時代の東アジア情勢をおさえておきましょう。東アジア情勢とは、具体的には朝鮮半島情勢のことです。

まず高句麗こうくり南下してきます。それに伴って、百済くだら新羅しらぎ両国も加羅から加耶諸国かやしょこく)に向かって南下してきます。

高句麗の南下による伽耶諸国の圧迫

つまり、日本の勢力圏であった加羅(加耶諸国)が百済・新羅に圧迫されるわけです。これは日本の朝鮮半島における勢力の減少を意味します。

これが飛鳥時代の東アジア情勢の概略がいりゃくです。

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日本国内の情勢

一方、日本国内では、豪族同士の対立が見られるようになっていきます。具体的には大伴氏おおともしが勢力を失い、大臣おおおみ蘇我氏そがし大連おおむらじ物部氏もののべしが対立します。

大臣とは政治のトップのことです。これに対して大連とは軍事のトップのことです。そして後に蘇我氏が権力を拡大し、渡来人と結んで仏教を受け入れることになります。

ここからは、天皇別に飛鳥時代をまとめていきます。

継体天皇の時代

飛鳥時代、最初の天皇は継体天皇けいたいてんのうです。応神天皇おうじんてんのうからずーっと続いてきた系譜けいふ武烈天皇ぶれつてんのうで途絶え、継体天皇の時代になります。

継体天皇を即位させたのは大伴金村おおとものかなむらなので、6世紀の継体朝で権力を握った豪族は大伴氏です。

大伴金村の失脚

さきほど、飛鳥時代の朝鮮半島情勢を確認しました。高句麗の南下に伴って百済や新羅も南下し、日本の勢力圏である加羅(伽耶諸国)が圧迫を受けるという話でしたね。

海の向こうである加羅(伽耶諸国)を守り切るのは難しいと判断した大伴金村は、友好国である百済に加羅西部の4県を譲ります。しかし、この加羅の4県を譲ったときに大伴金村が百済から賄賂わいろを受け取ったという疑惑が浮上し、それが原因で大伴金村は失脚します。急速に権力を失うわけです。

磐井の乱

継体天皇の治世に起きたもう一つの大事件が527年の磐井いわいらんです。当時、ヤマト政権は百済と関係を深めていた。一方、筑紫国造つくしのくにのみやつこ(つまり九州の地方豪族)である磐井いわい独自に新羅と友好関係にありました。

そのため新羅と結んでいる自分の立場が悪くなることを恐れた磐井は新羅の要請もあって、ヤマト朝廷に対して反乱を起こします。

しかし、最初こそ近江毛野おうみのけぬ率いる6万の軍勢を阻止した磐井ですが、物部麁鹿火もののべのあらかび率いる朝廷軍に鎮圧されてしまいます。そして鎮圧後、筑紫国つくしのくにには天皇の直轄地である屯倉みやけが置かれます。

ちなみに福岡県八女市にある前方後円墳である岩戸山古墳いわとやまこふんはこの磐井の墓とされています。普通、古墳の上には埴輪はにわが置かれますが、岩戸山古墳には石人せきじん石馬せきばが並べられているのが特徴です。なぜ磐井の墓だと分かるのかというと、ちゃんと文字史料が残っていて、そこに岩戸山古墳のことが書いてあるからです。

継体天皇 → 大伴金村の失脚/磐井の乱

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欽明天皇の時代

継体天皇の次は欽明天皇きんめいてんのうの治世です。欽明天皇といえば仏教です!

仏教の伝来

日本は朝鮮半島の百済と仲良くしていたわけですが、百済の聖明王せいめいおうから仏像や経典きょうてんをもらって、日本に仏教が伝えられます

戊午説 vs 壬申説

ただ西暦何年に仏教が伝えられたのかが、定かではない。これには2つの説があります。538年とする戊午説ぼごせつと552年とする壬申説じんしんせつです。

538年説(戊午説)の根拠は『上宮聖徳法王帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ』と『元興寺縁起がんごうじえんぎ』の2つです。

一方、552年説(壬申説)を示す史料は『日本書紀にほんしょき』です。

どちらにせよ仏教の伝来の年は重要なので、「午後に552ご参拝538」と覚えておきましょう。

語呂合わせ

仏教の伝来 → ゴゴニ552サンパイ

崇仏論争

遅くとも6世紀半ばには仏教が日本に伝えられるわけですが、すぐに根付くわけではありません。欽明天皇は蘇我稲目そがのいなめに「仏教を試しに広めてみなさい」と命令しますが、物部尾輿もののべのおこしはこれに反対します。

蘇我氏と物部氏の対立は「仏教の受容」にもあらわれるわけですね。これを崇仏論争すうぶつろんそうといいます。

・蘇我氏(蘇我稲目) → 仏教を受け入れる派
・物部氏(物部尾輿) → 仏教を受け入れない派

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敏達天皇・用明天皇の時代

続いて、「敏達びだつ天皇→用明ようめい天皇」の時代になります。敏達びだつ天皇・用明ようめい天皇自体は滅多にテストに出ることはありませんが、両天皇の時代に蘇我氏が権力を拡大し財政権をにぎったことは重要です。

財政権とは具体的には三蔵みつのくらの管理です。三蔵は斎蔵いみつくら内蔵うちくら大蔵おおくらの3つを指します。

崇峻天皇の時代

崇峻天皇すしゅんてんのうの時代になると、大臣の蘇我氏と大連の物部氏の対立が激化します。蘇我氏と物部氏の間で実際に戦争が起きる。具体的には蘇我馬子そがのうまこ物部守屋もののべのもりやを破って勝利します。

これにより物部氏は権力を失い、蘇我氏が天皇をしのぐほどの権力を持ちます。これを蘇我氏の専横せんおうといいます。

そして、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺してしまいます。あまりにも強大な権力を持った蘇我馬子と崇峻天皇が次第に対立を深めていったからです。

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推古天皇の時代

崇峻天皇が暗殺されると蘇我馬子厩戸王うまやとおう聖徳太子しょうとくたいしの力添えにより欽明天皇の娘である推古天皇すいこてんのうが即位します。欽明天皇の娘ですから推古天皇は女性の天皇ですね。

また推古朝では、厩戸王(聖徳太子)が摂政せっしょうになります。摂政とは天皇に代わって政治を行う地位です。

聖徳太子の業績

ここからは厩戸王(聖徳太子)の業績を見ていきましょう。

冠位十二階の導入

冠位十二階かんいじゅうにかいせいとは個人に冠を与え、色ごとに順位をつける制度です。今までは例えば大臣という位を氏族単位で与えていました。しかし冠位十二階によって個人単位で人材を評価できるようになります。つまり冠位十二階は豪族を役人(官吏かんり)として編成する制度なのです。

これにより無名の氏族の出身でも優秀な人材を役人として採用できるようになります。

憲法十七条の導入

冠位十二階に通じるものがありますが、憲法十七条けんぽうじゅうしちじょう豪族を役人(官吏)として編成する意図で作られたものです。内容としては官僚としての心構えと自覚を説くとともに、仏教の重視を宣言しています。

遣隋使の派遣

推古天皇の時代の重要事項が、遣隋使けんずいしの派遣です。中国のずいという王朝に使者を派遣しました。

隋書ずいしょ倭国伝わこくでんによれば600年に第1回遣隋使が行われています。

そして有名なのが607年の小野妹子おののいもこ遣隋使です。これが第2回遣隋使ですね。

小野妹子の遣隋使では、隋の皇帝煬帝ようだいに次のような手紙を送り、対等外交を求めます

国書こくしょいわく「づるところ天子てんししょぼっするところ天子てんしいたす。つつがきや、云々うんぬん」と。

現代語訳

太陽が昇る国(日本)の天皇が、太陽の沈む国(中国)の天子に書を送ります。お元気でしょうか?

今までは日本が下手に出て中国の顔色を伺うような朝貢外交でしたが、遣隋使では対等外交の試みが見事成功します。

隋の煬帝はこの手紙を読んで激怒しますが、ちょうど高句麗との戦争を計画しており、このタイミングで日本を敵に回すのは厄介だと考え、日本に返礼の使者として裴世清はいせいせいを派遣します。

そして翌608年になると、裴世清の帰国にあわせて第3回遣隋使が行われます。小野妹子はもう一度、隋に向かいます。

このとき、留学生として高向玄理たかむこのげんり留学僧として南淵請安みなみぶちしょうあんみんも同行します。この3人のうち高向玄理大化の改新で活躍しますよ!

607年の遣隋使では対等外交を求めた!

舒明天皇の時代

舒明天皇じょめいてんのうの時代に、初の遣唐使けんとうしが行われます。飛鳥時代の途中に中国の統一王朝はずいからとうに交代するわけです。そして630年の第1回遣唐使を担当したのは、過去に遣隋使も経験している犬上御田鍬いぬかみのみたすきです。

舒明天皇といえば遣唐使!

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皇極天皇の時代

皇極天皇こうぎょくてんのう女性の天皇です。皇極天皇の治世の権力者は蘇我入鹿そがのいるかです。蘇我入鹿はライバルであった厩戸王聖徳太子)の子である山背大兄王やましろのおおえのおうを滅ぼします。

蘇我入鹿に滅ぼされた山背大兄王が聖徳太子(厩戸王)の子供!

乙巳の変

への留学から帰国した南淵請安の塾で共に学んだ中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたりは、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろの協力を得て645年に蘇我入鹿を暗殺します。

これに伴って、入鹿の父である蘇我蝦夷そがのえみしも自害します。これが乙巳の変と呼ばれる大化の改新の発端となるクーデター事件です。

乙巳いっしへんが起きた背景には、早く中央集権化を達成し、強大化する中国(唐)に追いつかないといけないという事情がありました。けれども蘇我氏の権力独占という状態のままでは政治改革は難しい

そこで蘇我氏を滅ぼし、一刻も早く中央集権化を図るために乙巳の変を起こしたわけですね。乙巳の変は、大化の改新と呼ばれる唐に習った中央集権化のための政治改革の出発点になるのです。

乙巳の変の結果、ときの権力者は蘇我氏から中大兄皇子に交代します。

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孝徳天皇の時代

乙巳の変後、天皇も交代します。皇極天皇に代わって645年には孝徳天皇こうとくてんのうが即位します。

中大兄皇子は、天皇にならず皇太子こうたいしとして政治を行います。皇太子というポジションの方が柔軟に自分のやりたい政治を実現できるからと考えられています。

またみやこも一新され、今まで都のあった奈良の飛鳥から難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみや遷都せんとします。「さき」の字が特殊なので漢字要注意ですよ!

大化の改新

まずは大化の改新のメンバーを整理しておきましょう。

役職人物名
天皇孝徳天皇
皇太子中大兄皇子
内臣うちつおみ中臣鎌足なかとみのかまたり
右大臣うだいじん蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ
左大臣さいだいじん阿倍内麻呂あべのうちまろ
国博士くにのはかせみん高向玄理たかむこのげんり

中臣鎌足内臣うちつおみに就任します。乙巳の変を手伝った蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ右大臣に任命されます。また旧豪族の長老的人物である阿倍内麻呂左大臣を担当します。

遣隋使で留学していた南淵請安は、国博士くにのはかせという国政のブレーン的地位に就任します。中国留学で得た知識を買われたわけですね。

さらに、年号を大化たいかと定め、646年には改新かいしんみことのりを発布します。

改新の詔の内容

改新の詔
1.土地・人民は国家の持ち物とする(公地公民)
2.地方の行政区画を決めて、中央集権化を図る
3.戸籍・計帳を作り、班田収授はんでんしゅうじゅを行う
4.統一的な租税制度を開始する

要は、今まで豪族に任せていた地方支配を、中央政府が行うようにしたわけです。律令法りつりょうほう模範もはんとして中央集権体制ちゅうおうしゅうけんたいせいを確立しようとしたのですね。

但し、改新の詔では「戸籍・計帳・班田収授の法を作れ」と指示をしているだけで、まだこのときには班田収授の法はありませんでした。また実際に戸籍が作成されたのも670年になってからのことです。

中大兄皇子の権力拡大

中大兄皇子は自身の権力を確かなものにするため、蘇我倉山田石川麻呂有間皇子ありまのみこを滅ぼします。

中央政府支配の拡大

東北地方の蝦夷えみし支配の足がかりとして渟足柵ぬたりのき磐舟柵いわふねのきといったとりでを、現在の新潟県に設置します。朝廷はまだ東北地方を支配しきれていなかったからです。

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斉明天皇の時代

斉明天皇さいめいてんのうは、上述した皇極天皇が再び天皇の位についたものです。このように2回天皇に即位することを重祚ちょうそといいます。皇極天皇が女性ですから斉明天皇ももちろん女性の天皇です。

(※皇極天皇が、なぜ斉明天皇として重祚したのか?については、コチラの記事でさらに詳しく解説しています。)

また、斉明天皇の治世には阿倍比羅夫あべのひらふによる蝦夷えみしの平定が行われます。

朝鮮半島情勢の変化

一方、朝鮮半島では唐・新羅連合軍が百済を滅ぼします。そして唐の後ろ盾により新羅が朝鮮半島を統一します。

しかし、まだ完全に敗北したと考えていなかった百済の生き残りは、日本に百済復興のために援軍を出して欲しいと要請します。

そこで、日本と親密な関係にあった百済を救援し、朝鮮半島における日本の優位性を高めるために、百済救援の大軍を派遣することを決定。

しかし、斉明天皇は百済救援に向かう途中で死没してしまいます。

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中大兄皇子の称制

斉明天皇の死後は中大兄皇子が天皇の位につかず政治を行います。これを称制しょうせいといいます。中大兄皇子は662年に大軍を渡海させ、663年に白村江はくそんこうの戦い唐・新羅連合軍に大敗します。

(※白村江の戦いについては、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)

天智天皇の時代

中大兄皇子は、668年になるとようやく天皇の地位に就きます。これが天智天皇てんじてんのうです。

白村江の戦いに負けた天智天皇は唐・新羅連合軍の日本への侵攻を恐れ、難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみや難波宮なにわのみや)から大津宮おおつのみやに遷都します。

白村江の戦い後の、難波宮から大津宮への遷都
難波宮から大津宮への遷都

大阪湾から敵が侵攻してくることを警戒し、琵琶湖のほとりに都を移したわけです。

さらに国防の充実を図るため、九州の大宰府周辺に水城みずきという巨大な堤防を築きます。また大宰府は攻められる可能性が高かったため、大宰府周辺に大野城おおのじょう基肄城きいじょうといった朝鮮式山城ちょうせんしきやまじろを築城します。

また対馬~大和(奈良)にかけてたくさんの朝鮮式山城を築城します。

庚午年籍

天智天皇の政治で忘れてはならないのは670年の庚午年籍こうごねんじゃくの作成です。これは日本最初の戸籍です。

改新の詔では「戸籍を作れ」と方針を示しているだけで実際に戸籍は作られませんでした。670年になってやっと日本初の戸籍が作られたわけですね。

近江令

また天智天皇は日本初の法令(法律)である近江令おうみりょうを作成したことでも有名です。近江令は中臣鎌足らが中心となって作成された法令ですが、詳細は不明です。

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壬申の乱

天智天皇が671年に死去すると、皇位継承をめぐって壬申じんしんの乱が起きます。これは大海人皇子おおあまのみこ大友皇子おおとものみこの間で起こった戦争です。

最終的に大海人皇子が勝利をおさめ、673年に飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや天武天皇てんむてんのうとして即位します。

天武天皇の時代

天武天皇は、天皇中心の政治体制を確立するため八色やくさかばねという身分制度を設立します。これは豪族たちの身分制度を再編成し、天皇に近い者ほどえらいという制度です。

また経済面では、最古の貨幣である富本銭ふほんせんの鋳造を行います。

さらに天武天皇は、飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうという法令を作ったことでも有名です。但し、飛鳥浄御原令を制定しただけで実施はまだです。

また天武天皇は藤原京ふじわらきょうの造営を行います。造営はしますが遷都もまだなので注意してください。

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飛鳥時代から奈良時代へ

天武天皇の後にはその妻だった持統天皇じとうてんのうが即位します。持統天皇の時代の694年には、藤原京ふじわらきょうに遷都します。(藤原京は、現在の奈良県橿原市)

そして697年には文武天皇もんむてんのうが即位します。

この文武天皇で必ずおさえておきたいのが、701年に制定された大宝律令たいほうりつりょうです。刑部親王おさかべしんのう藤原不比等ふじわらのふひとらが大宝律令を作成しました。

これは現代の刑法にあたる「りつ」と、民法・行政法にあたる「りょう」がはじめてそろった法律です。

こうして飛鳥時代の終わり頃にようやく律令国家の基礎が整ったのです。

この後の710年の平城京へいじょうきょうへの遷都で飛鳥時代が終わり、奈良時代へと突入していきます。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • すごいボリュームですね!
    学生時代に読んでいたらもっと勉強ができていたかもしれません。。。笑
    でもいろんな漫画やドラマを見てなんとなく関係が分かるからこそ楽しめるのかも?とも思いました!

    • さいころさん
      コメント頂きありがとうございます。
      歴史を勉強する際には、まずはその背景や流れを楽しむことが一番です。
      その際には、漫画やドラマもとても役立ちますよね!
      日本の歴史も、色々な背景が重なってダイナミックに流れているので、学べば学ぶほど面白くなってきます。

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