【飛鳥時代の問題】定期試験・大学入試にも出る43題|高校日本史B

飛鳥時代に関する問題

高校日本史Bの定期試験~大学受験に対応した飛鳥あすか時代(592年~710年)の一問一答集です。

継体朝けいたいちょうに始まり天武てんむ持統じとうちょうまでの政治史を扱います。(文化史と律令制度りつりょうせいど割愛かつあいします。)

全部で43問あり、「歴史能力検定」や「教養としての日本史学習」にも役立つ内容なので、ぜひ挑戦してみてください!

作問・出題にあたっては次のような工夫をしました!

  • 問題文と解説文を読むだけで「飛鳥時代の流れ」が分かるよう配慮した。
  • 出題用語は大学入試頻出用語に絞り、難関大で問われる用語は解説文中で登場させるよう配慮した。
  • 書き取り練習の必要な見慣れない漢字や難しい漢字は大きなフォントで示した
  • 史料問題への得点力がつくよう配慮した。
  • 文章だけでは分かりづらいと判断した部分には図解年表をいれた。
一問一答集の効果的な使い方を確認する!
  1. 飛鳥時代の流れを理解した上で、答えの赤字を暗記する。
  2. 答えの赤字を、即答できるようになるまで繰り返し問題を解く。
  3. 答えの赤字を暗記できたら、次は「漢字」でも書けるよう練習する。
  4. 「答え」以外の重要用語を繰り返し読み込んで覚える。
  5. 4の重要用語を「漢字」でも書けるように練習する。

まずは飛鳥時代の流れを理解したい!」という方は飛鳥時代の総まとめを参考にしていただければと思います!

それでは、ここから問題に入っていきましょう。

目次

「飛鳥時代の東アジア」の問題

【問題1】飛鳥時代の東アジアでは(  )が強大化し、百済や新羅を圧迫した。その結果、百済・新羅の両国は、加耶諸国を圧迫した。[日本大・改題]

【解答】正解は高句麗こうくりです。

加耶かや加羅から)はヤマト政権の朝鮮半島における拠点でした。そのため、高句麗こうくりが強大化し、結果的に百済くだら新羅しらぎに加耶が圧迫されると、日本の朝鮮半島における勢力は減少しますよ。

高句麗の南下政策による加耶の圧迫
高句麗の南下政策による加耶の圧迫

朝鮮の加耶かや任那みまなに日本の拠点があった!

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「継体天皇の時代」の問題

飛鳥時代は正確には592年~710年で、推古朝すいこちょう平城京へいじょうきょう遷都せんとまでの時期を指しますが、この問題集では6世紀初頭の継体朝けいたいちょう天武てんむ持統朝じとうちょうまでの期間を扱います。

【問題2】武烈天皇の死後(  )によって継体天皇が擁立された。[学習院大・改題]

【解答】正解は大伴金村おおとものかなむらです。6世紀初め、応神おうじん天皇の系譜けいふ武烈ぶれつ天皇で途絶えると、大伴金村継体けいたい天皇を即位させ、時の権力者となります。

【問題3】大伴金村は継体天皇を擁立し権力を握った。しかし、512年に「任那四県」の割譲を(  )から要請され、これに応じたことを物部尾輿もののべのおこしに追求され失脚した。[学習院大・改題]

【解答】正解は百済くだらです。大伴金村おおとものかなむらは、任那みまな四県と呼ばれる朝鮮半島南部のヤマト政権の拠点を百済くだらに譲ることができるほど、強い権力を持っていました。

しかし、この判断がきっかけとなり、大伴金村は権力を失ってしまいます

大伴金村は賄賂わいろを受け取って百済くだら任那四県みまなよんけんをあげたのではないか?という疑惑ぎわくで追求され、急速に権力を失います。

【問題4】512年の大伴金村による任那割譲を受けて、527年には任那を回復すべくヤマト政権は、朝鮮半島へ向けて大軍を派遣した。しかし、密かに新羅と結んでいた(  )に進軍を妨害された。[東京女子大・改題]

【解答】正解は筑紫国造磐井つくしのくにのみやつこいわいです。これが527年に起きた大事件、磐井いわいらんです。

ヤマト政権は百済くだらと密接な関係にありました。これに対し、磐井は新羅しらぎと結んでヤマト政権への反乱を起こしたのです。

結果的に、ヤマト政権の朝鮮半島における勢力は縮小してしまいます。さらに562年には加耶かや新羅しらぎに併合されてしまい、ヤマト政権の朝鮮における拠点は失われます。

なお、この磐井の墓は福岡県八女市やめし岩戸山いわとやま古墳ですよ。

【問題5】527年の磐井の乱の鎮圧後、筑紫国には(  )が置かれた。[成城大・改題]

【解答】正解は屯倉みやけです。屯倉みやけは、大王おおきみ直轄地ちょっかつちのことでしたね。

氏姓制度しせいせいどを経済的に支えた私地私民しちしみんでは、大王おおきみ直轄地ちょっかつちを屯倉、直轄民ちょっかつみん名代なしろ子代こしろというのでした。

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「欽明天皇の時代」の問題

【問題6】欽明天皇の時代に権力を握ったのは大臣の(  )と大連の物部尾輿である。[同志社大・改題]

【解答】正解は蘇我稲目そがのいなめです。蘇我稲目のかばね大臣おおおみで、物部尾輿もののべのおこしかばね大連おおむらじですよ。

蘇我稲目は大臣おおおみとして主に財政掌握しょうあくし権力を握りました。

一方、物部尾輿もののべのおこし大連おおむらじとして軍事を担当し、権力を握りました。任那割譲みまなかつじょうの責任を追求して大伴金村を失脚させたのも物部尾輿もののべのおこしですよ。

氏姓制度を復習をしたい方は、氏と姓の違いを簡単にわかりやすく解説!氏姓制度の目的とは?を参考にしてくださいね。

【問題7】6世紀半ばごろ欽明天皇の時代に、百済の(  )から、仏教が公的な形で伝えられた。[立教大・改題]

【解答】正解は聖明王せいめいおうです。百済くだら聖明王欽明きんめい天皇に仏教を伝えたことを「仏教の公伝」といいます。

仏教の公伝には、『日本書紀にほんしょき』を根拠とする552年説と『上宮聖徳法王帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ』・『元興寺縁起がんごうじえんぎ』を根拠とする538年説の2つがあります。

どちらの年号もテストに出題されるので「午後に552ご参拝538」と覚えておくと便利ですよ。

【参考記事】仏教の公伝!戊午説と壬申説の違いとは?上宮聖徳法王帝説と日本書紀

【問題8】欽明天皇が仏教礼拝の可否を臣下に尋ねたところ、受け入れに積極的な蘇我稲目は、(  )と対立した。[立教大・改題]

【解答】正解は物部尾輿もののべのおこしです。渡来人を積極的に登用していた蘇我氏そがしは、渡来人の信仰する仏教を広めようと試みます。

一方、祭祀さいし(お祭りや儀式)を担当する中臣氏なかとみしを家来としていた物部氏もののべしは、中臣氏が神道しんとうを重視していたこともあり、仏教に反対します。この対立を崇仏論争すうぶつろんそうといいます。

この崇仏論争をきっかけに、蘇我氏と物部氏は対立を深めていき、最終的には蘇我氏が勝利します

崇仏論争すうぶつろんそう

  • 蘇我氏そがし(仏教賛成)←渡来人
  • 物部氏もののべし(仏教反対)←中臣氏

ここまで「継体天皇→欽明天皇」の時代を見てきましたが、飛鳥時代(592年~710年)がまだ始まってすらいません。ただ、ここまでの流れは飛鳥時代を理解する上で大切なので、いったん年表に整理しておきます。

継体朝~欽明朝の年表

大伴金村おおとものかなむら任那みまな四県を百済くだら割譲かつじょう

賄賂疑惑わいろぎわくで大伴金村は失脚

磐井いわいの乱

・九州で筑紫国造磐井つくしのくにのみやつこいわいが反乱

仏教の公伝

百済くだら聖明王せいめいおう欽明きんめい天皇に仏教を伝える

加耶かやの滅亡

新羅しらぎが加耶を滅ぼし、日本は朝鮮半島への足がかりを失ってしまう

ずいの中国統一

・4世紀~6世紀後半にかけて混乱していた中国を、ついにずいが統一する

飛鳥時代のはじまり

崇峻すしゅん天皇が暗殺され、推古すいこ天皇が即位

聖徳太子しょうとくたいし摂政せっしょうになる

推古すいこ天皇の皇子みこ摂政せっしょう)として聖徳太子が蘇我馬子そがのうまことともに国の政治を行う

飛鳥時代から奈良時代へ

平城京へいじょうきょう遷都せんとし、奈良時代がはじまる

続いて、「崇峻すしゅん天皇の時代」からの出題です。

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「崇峻天皇の時代」の問題

大臣おおおみ蘇我氏大連おおむらじ物部氏対立が激化するのが崇峻すしゅん天皇の時代の特徴です!

【問題9】589年に北朝系の(  )が中国を統一した。これは崇峻天皇の即位から約2年後の出来事であった。[明治大・改題]

【解答】正解はずいです。4世紀~6世紀後半の中国は、いくつかの国に分かれて互いに争っており、朝鮮半島などの周辺地域の支配力が弱まっていました

ところが、589年ずい中国の統一を果たすと、朝鮮半島や日本に緊張が走ります。

【問題10】蘇我馬子は仏教の受容をめぐって対立していた廃仏派の(  )を587年に滅ぼした。[北海道大]

【解答】正解は物部守屋もののべのもりやです。

崇仏論争すうぶつろんそうのときの蘇我氏は蘇我稲目そがのいなめで、その子が蘇我馬子そがのうまこです。同じく崇仏論争のときの物部氏は物部尾輿もののべのおこしで、その子が物部守屋もののべのもりやです。

馬子と守屋は実際に弓矢や剣をまじえて戦争をしますよ。その結果、勝利をおさめたのが蘇我馬子というわけです。

【問題11】蘇我馬子は物部氏を滅ぼした結果、大きな権力を握り(  )天皇を即位させた。しかし次第に(  )天皇が蘇我馬子に対し反抗的になると、両者は対立した。その結果、蘇我馬子は、592年に(  )天皇を暗殺した。[立教大・改題]

【解答】正解は崇峻すしゅん天皇です。当時、蘇我馬子そがのうまこ天皇をしのぐほどの権力をもっていました。

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「推古天皇の時代」の問題

【問題12】日本ではじめての女性の天皇は、蘇我氏と血縁関係の深い(  )天皇である。[同志社大]

【解答】正解は推古すいこ天皇です。崇峻すしゅん天皇を暗殺した蘇我馬子が592年推古すいこ天皇を即位させました。推古天皇は初の女帝ですよ。

【問題13】推古天皇の政治は蘇我馬子と摂政の(  )によって支えられた。

【解答】正解は厩戸王うまやとおう聖徳太子しょうとくたいし)です。

聖徳太子は厩戸王うまやとおうともいい、593年に推古天皇の摂政せっしょうになりました。摂政とは天皇にかわって政治全般を行う地位のことです。

推古朝では蘇我馬子そがのうまこ聖徳太子が協力して政治を行いました。

推古朝の政治では、地方勢力を全面的に天皇の支配下におき、天皇を中心とする統一的国家組織をつくることを目指しました。

推古朝では、崇峻すしゅん天皇暗殺事件による「政治の混乱」を安定させることも重要視されました。

【問題14】推古朝では、氏姓制度の弊害をなくすべく、個人の功績や才能に応じて位を与える制度を603年に定めた。この制度を何というか?[西南学院大・改題]

【解答】正解は冠位十二階かんいじゅうにかいせいです。単に冠位十二階かんいじゅうにかいでも正解です。

氏姓制度では一族(うじ)に与えられたかばねにより、世襲的せしゅうてきくらいが決まってしまいます。

一方、冠位十二階では、個人の功績や才能に応じて位が与えられました。これにより氏族単位ではなく個人単位の人材採用が可能になったのです。

【問題15】次の史料を読んで後の問いに答えよ。

一に曰く、もったっとしとなし、さかふることきをむねとせよ。……
二に曰く、あつ三宝さんぽううやまへ。三宝さんぽうとは、ほとけのりほうしなり。……
三に曰く、みことのりうけたまわりては必ずつつしめ。……


(問1)この史料の名称は何か?[日本大]
(問2)この史料が制定されたのは西暦何年か?[関西大・改題]
(問3)この史料の出典は『(  )』である。[新潟大]

【解答】

(問1)正解は憲法十七条けんぽうじゅうしちじょうです。厩戸王うまやとおう(聖徳太子)の作成と言われています。豪族に役人としての心得を示したものです。

(問2)正解は604年です。

(問3)正解は『日本書紀にほんしょき』です。

【憲法十七条・現代語訳】

一、和を尊び、人と争うことのないようにしなさい。
二、深く三宝を敬いなさい。三宝とは仏とその教えと僧侶のことである。
三、天皇の命令を受けたらちゃんと従いなさい。

【関連記事】聖徳太子「十七条憲法」の内容・目的をわかりやすく解説!

【問題16】『隋書』倭国伝によれば、「大業三年」に推古天皇は(  )を隋に派遣した。[明治大・改題]

【解答】正解は小野妹子おののいもこです。大業三年だいぎょうさんねんとは西暦607年のことです。

小野妹子の派遣は第2回・遣隋使けんずいしです。

なお、入試頻出史料である隋書ずいしょ倭国伝わこくでんについては「9分でわかる遣隋使!『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説」を合わせて参考にしてください。

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「舒明天皇の時代」の問題

【問題17】舒明天皇の時代(630年)に初の遣唐使が実施され(  )が中国の唐に派遣された。[東京経済大・改題]

【解答】正解は犬上御田鍬いぬがみのみたすきです。舒明じょめい天皇といえば「初の遣唐使けんとうし」ですよ。

そして、初の遣唐使といえば犬上御田鍬いぬがみのみたすきです。

舒明じょめい天皇初の遣唐使けんとうし

「皇極天皇/孝徳天皇の時代(大化の改新)」の問題

【問題18】推古天皇が死去したとき、厩戸王の子である(  )らが、有力な皇位継承者であった。[立教大・改題]

【解答】正解は山背大兄王やましろのおおえのおうです。

舒明天皇の皇位継承者の候補として非常に有力だったのが、厩戸王うまやとおう聖徳太子しょうとくたいし)の子である山背大兄王やましろのおおえのおうです。

【問題19】643年、(  )は山背大兄王を自殺に追い込み、権力を独占した。[上智大・改題]

【解答】正解は蘇我入鹿そがのいるかです。

【問題20】645年、皇極天皇のとき、中大兄皇子と( ① )は中央集権国家を目指し、( ② )を暗殺し、( ② )の父の蘇我蝦夷をも自殺に追い込み、政権を奪取した。このクーデター事件を乙巳の変といい、その後の一連の政治改革を大化の改新という。[関西大・改題]

【解答】正解は①中臣鎌足なかとみのかまたり、②蘇我入鹿そがのいるかです。

中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたり南淵請安みなみぶちのしょうあんの塾でともに学んだ仲です。

中大兄皇子と中臣鎌足は、阿倍内麻呂あべのうちまろ蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろらと協力し、蘇我入鹿そがのいるかを暗殺します。また、これにともなって、蘇我蝦夷そがのえみし(入鹿の父)も自殺に追い込まれます。

こうして絶大な権力を誇った蘇我氏は急速に権力を失います。この645年のクーデターを乙巳いっしへんといいます。

【関連記事】乙巳の変をわかりやすく解説!なぜクーデターを起こす必要があったのか!?

【問題21】大化の改新は618年に中国を統一した(  )にならい、官僚制的な中央集権国家体制の確立を目指した政治改革である。

【解答】正解はとうです。

【問題22】大化の改新における( ① )天皇の治世では、従来の大臣や大連は廃止され、( ② )を内臣に任命するなど、政治体制の改革が実施された。[関西大・改題]

【解答】正解は①孝徳こうとく天皇、②中臣鎌足なかとみのかまたりです。

蘇我氏が事実上、滅ぼされると、すぐに新政府が設立されます。

乙巳いっしへんと同じ年の645年には、皇極こうぎょく天皇にかわって孝徳こうとく天皇が即位します。

そして、中大兄皇子なかのおおえのみこ皇太子こうたいしに、中臣鎌足なかとみのかまたり内臣うちつおみに任命されます。

さらに新政府では、左大臣さだいじん阿倍内麻呂あべのうちまろ右大臣うだいじん蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろが任じられ、「とう」から帰国した高向玄理たかむこのげんりみんの2名は、国博士くにのはかせとして中大兄皇子の政治を助ける地位につきます。

大化たいか改新かいしん乙巳いっしへんの後の政治改革

【問題23】孝徳天皇は人心の一新を図るため、645年に、都を(  )に遷都した。

【解答】正解は難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみやです。

翌646年には改新のみことのりが発布され、新政府の政治改革の方針が明らかにされました。

【問題24】646年に発布された改新の詔で、豪族による人民・土地の私有を廃止し、人民・土地を国家が所有する制度を何というか?[聖心女子大・改題]

【解答】正解は公地公民制こうちこうみんせいです。

公地公民制は私地私民しちしみんを廃止し、私有地や私有民の国有化を目指す制度です。

すなわち、天皇の私有地/私有民である屯倉みやけ名代なしろ子代こしろ豪族の私有地/私有民である田荘たどころ部曲かきべを廃止する制度でした。

これらを国家に収めるかわりに、大夫だいふ以上には食封じきふという形で国から給与が与えられました。

【参考記事】「改新の詔」の内容を簡単にわかりやすく解説!

【公地公民制で廃止されたもの】

  • 天皇の直轄地→屯倉みやけ
  • 天皇の直轄民→名代なしろ子代こしろ
  • 豪族の私有地→田荘たどころ
  • 豪族の私有民→部曲かきべ
【問題25】次の史料を読んで後の問いに答えよ。
其の一に曰く、昔在むかしの天皇の立てたまへる( a )の民、処々ところどころ屯倉みやけおよび、ことにはおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこ村首むらのおびと所有たもてる( b )の民、処々ところどころ田荘たどころめよ。りて食封じきふ大夫まえつきみより以上にたまふこと、おのおのしならむ。……
其の二に曰く、初めて京師みさとおさめ……
其の三に曰く、初めて戸籍こせき計帳けいちょう班田収授はんでんしゅうじゅほうつくれ。……

(問1)この史料の名称は何か?[学芸大・改題]
(問2)この史料が発布されたのは西暦何年か?[学芸大・改題]
(問3)この史料の出典は何か?[日本女子大・改題]
(問4)( a )に入る語句は何か?
(問5)( b )に入る語句は何か?

【解答】(問1)正解は改新かいしんみことのりです。「初めて戸籍こせき計帳けいちょう班田収授はんでんしゅうじゅほうつくれ」というフレーズから史料名を特定したいところですね。

(問2)正解は646年です。645年乙巳いっしへんが起こり、すぐに新政府が立ち上げられます。同645年には孝徳こうとく天皇が即位し、孝徳天皇は同じく645年に都を難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみやに移します。そして翌646年改新の詔が発布されます。

(問3)正解は日本書紀にほんしょきです。

(問4)正解は子代こしろです。名代なしろ子代こしろとは天皇の直轄民のことですね。改新の詔には「名代」は出てきません。「子代の民」とだけ記述があります。

(問5)正解は部曲かきべです。空所の直前には「おみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこ村首むらのおびと所有たもてる」とあります。臣・連・国造などは全て「豪族」のことですね。豪族の持っている民という意味なので、文脈から豪族の私有民を意味する部曲かきべが正解です。

【改新の詔・現代語訳】
その1、昔から代々の天皇がおいた子代こしろの民や各地の屯倉みやけ、さらにおみむらじ伴造とものみやつこ村首むらのおびとなどの諸豪族の部曲かきべと各地の田荘たどころを廃止せよ。そのかわりに、大夫だいふ以上の者には、位に応じて食封じきふを与えることにする。
その2、はじめて都をつくり…….
その3、はじめて戸籍こせき計帳けいちょう班田収授はんでんしゅうじゅほうをつくれ。……

【問題26】「郡」という表記は701年に成立した大宝律令以後に用いられたとみられている。それ以前の郡に相当する行政単位を何というか?[中央大・改題]

【解答】正解はこおりです。

646年改新の詔には「こくぐんといった地方行政区画を定めるように」との記述がみられますが、実際には大化の改新の頃の地方行政区画はぐんではなく、こおりでした。

評は701年大宝律令たいほうりつりょうのときに「ぐん」に改められました。なお、こおり国造くにのみやつこが支配していた従来のクニを分割したものです。

【補足】大化の改新が実施された7世紀半ば頃は、ちょうど古墳時代こふんじだい終末期しゅうまつきに該当します。そして7世紀以降、大型古墳が造られなくなっていくのですが、その理由の1つに、646年薄葬令はくそうれいがあります。薄葬令はくそうれいとは、身分に応じて墓の規模を制限することです。
[関連記事]古墳時代後期(6~7世紀)のまとめ

【問題27】孝徳天皇は中央政府の支配の拡大を図り、東北地方へ進出すべく、越後国(現在の新潟県)に、蝦夷支配の足がかりとして( ① )と( ② )という2つの砦を築いた。[学習院大・改題]

【解答】正解は①渟足柵ぬたりのさく、②磐舟柵いわふねのさくです。これらのとりでは東北の蝦夷えみしを支配下に組み込むため、越後国えちごのくに(現在の新潟県)の日本海側に作られました。

ここまでで、飛鳥時代(592年~710年)全体のうち、「推古朝→大化の改新」を扱いました。飛鳥時代の歴史の流れを見失わないように、いったん年表に整理しておきますね。年表を確認した後は引き続き、「斉明天皇~持統天皇」までの一問一答で日本史用語を暗記して頂ければと思います。

推古朝~大化の改新までの年表

推古すいこ天皇の即位(飛鳥あすか時代のはじまり)

崇峻すしゅん天皇と対立した蘇我馬子そがのうまこは、崇峻天皇を暗殺し、同592年に推古すいこ天皇を即位させます。これが飛鳥時代のはじまりです。

聖徳太子が推古天皇の摂政に就任

聖徳太子しょうとくたいし厩戸王うまやとおう)が推古天皇の摂政せっしょうに就任し、蘇我氏そがし馬子うまこ)とともに政治を行います。

冠位十二階を制定

氏姓制度しせいせいどの弊害をなくすべく、冠位十二階かんいじゅうにかいを制定します。これにより、一族単位ではなく個人単位の人材採用が可能になります。

憲法十七条の制定

豪族に官僚かんりょうとしての心構えを説きます。

第2回・遣隋使けんずいしの実施

小野妹子おののいもこずいに派遣され、隋の皇帝の煬帝ようだいに対等外交を求める文章を提出します。

【参考記事】9分でわかる遣隋使!『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説

初の遣唐使けんとうしを実施

舒明じょめい天皇のとき、初の遣唐使が実施され、犬上御田鍬いぬがみのみたすきとうに派遣されます。

蘇我氏が山背大兄王やましろのおおえのおうを滅ぼす

蘇我入鹿そがのいるかが聖徳太子の子の山背大兄王やましろのおおえのおうを自殺に追い込み、権力を独占します。

乙巳いっしへん・大化の改新

中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたりらが中心となり、蘇我氏を滅ぼします。同645年に孝徳こうとく天皇が即位し、翌646年には改新のみことのりが発布されます。

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「斉明天皇の時代」の問題

【問題28】645年の乙巳の変の後、皇極天皇にかわって孝徳天皇が即位する。しかし、654年に孝徳天皇が難波宮で死去すると、翌655年には皇極天皇が斉明天皇として(  )する。[北海道大・改題]

【解答】正解は重祚ちょうそです。

皇極こうぎょく天皇→斉明さいめい天皇」のように、一度退位した天皇が再び皇位につくことを「重祚ちょうそ」といいます。皇極天皇は女性ですから、当然、斉明天皇も女性の天皇ですよ。

(参考記事)皇極天皇はなぜ斉明天皇として重祚したのか?

孝徳こうとく天皇の時代に実権を握ったのは中大兄皇子なかのおおえのみこです。しかし孝徳天皇のあとも中大兄皇子は天皇に即位せず、自分の母親である斉明さいめい天皇を即位させました。このとき斉明朝で実権を握ったのも、中大兄皇子です。中大兄皇子は自らは即位せず、皇太子こうたいしという立場で裏から政治を操作する方が得策だと考えていたようです。

【問題29】斉明天皇は、(  )を日本海側沿いに派遣して、水軍による蝦夷討伐を行った。[早稲田大]

【解答】正解は阿倍比羅夫あべのひらふです。

東北(新潟県)には孝徳天皇のとき、すでに、渟足柵ぬたりのさく(647年)・磐舟柵いわふねのさく(648年)といったとりでを築いていましたね。

この約10年後の658年になると、中大兄皇子なかのおおえのみこ蝦夷えみし討伐の政策をさらに推し進めて、阿倍比羅夫あべのひらふを派遣します。

阿倍比羅夫は秋田県・津軽つがる方面の蝦夷えみしを討伐し、さらに北海道まで進軍します。

【問題30】斉明天皇の治世で、朝鮮半島では、660年に唐・新羅の連合軍が(  )を滅ぼした。[東京女子大・改題]

【解答】正解は百済くだらです。

とうは中国を統一した国家ですね。この唐と新羅しらぎの連合軍が660に日本と関係の深い百済くだらを滅ぼしてしまいます。

当然、百済と仲の良かった日本も黙ってはいませんよ!

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「中大兄皇子の称制」に関する問題

661年~667年の間を、中大兄皇子なかのおおえのみこ称制しょうせいといいます。称制とは皇位につかず、天皇のかわりに、皇太子こうたいしとして政治を行うことです。その間、天皇は空位です。中大兄皇子は668年になってようやく天智てんじ天皇として即位します。

【問題31】660年に百済が滅亡すると、その生き残りの王族であった鬼室福信きしつふくしんは、日本に救援要請を行い、加えて、百済の王子である豊璋ほうしょうの返還を求めた。援軍の求めに応じた中大兄皇子は、663年に唐・新羅連合軍と戦い大敗した。この戦いを何というか?[明治大・改題]

【解答】正解は白村江はくそんこうたたかです。白村江は「はくすきのえ」とも読みます。

663年という年号も超重要ですよ!

660年に百済が滅びると、生き残った百済の王族は百済復興を願ってヤマト政権に援軍を要請します。

日本・百済の連合軍は朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と激突しますがボロ負けします。その結果、百済は完全に滅亡してしまいます。

(※白村江の戦いについては、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)

【問題32】中大兄皇子は667年に(  )に遷都し、翌668年に天智天皇として即位した。[関西大・改題]

【解答】正解は近江大津宮おうみおおつのみやです。近江おうみとは現在の滋賀県のことですよ。

白村江の戦い後の、難波宮から大津宮への遷都
難波宮から大津宮への遷都

中大兄皇子なかのおおえのみこ近江大津宮おうみおおつのみや遷都せんとした背景としては、万が一、唐・新羅連合軍が日本に攻め入ってきた場合に、大阪湾に面した、難波宮なにわのみやが陥落しても首都機能が失われないように配慮したことが挙げられます。

侵略された場合の安全を考えて首都を海沿いの難波宮なにわのみやから内陸の大津宮おおつのみやに移したわけですね。

【問題33】663年の白村江での敗戦後、唐・新羅連合軍の反攻を恐れた朝廷は、664年に大宰府の北に(  )を設けて防備を固めた。[慶応大・改題]

【解答】正解は水城みずきです。水城みずきは、唐・新羅連合軍から攻められる可能性が最も高い大宰府だざいふを守るための城です。

【問題34】665年に大宰府を防衛するために、大宰府の北の山上に築かれた朝鮮式山城を何というか?[同志社大・改題]

【解答】正解は大野城おおのじょうです。大野城水城みずきと同様に最も唐・新羅連合軍が侵攻してくる可能性の高い大宰府だざいふを守るために設置された城です。

なお、「水城」や「大野城」といった名称は、九州・福岡県福岡市の地名として現在でも残っています。

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「天智天皇の時代」の問題

【問題35】668年には高句麗が滅ぼされ、676年には(  )が朝鮮半島を統一した。[東北学院大・改題]

【解答】正解は新羅しらぎです。

660年には唐・新羅連合軍によって百済くだらが滅びますよね。そして668年には高句麗こうくりが滅びる。

これで朝鮮半島には「新羅だけ」が残るわけですが、新羅が朝鮮半島統一を果たすのは、676年です。

この668年~676年の期間、今度は朝鮮半島の利権をめぐってとうと新羅が対立します。

そして676年になってようやく新羅が唐の勢力を朝鮮半島から追い出し、朝鮮半島の統一を果たすのです。

【問題36】天智天皇のもとで、668年には( ① )と呼ばれる日本で初めての律令が完成し、670年には( ② )という日本最初の全国規模の戸籍が作成された。[同志社大・改題]

【解答】正解は①近江令おうみりょう、②庚午年籍こうごねんじゃくです。

近江令おうみりょうとは、天智てんじ天皇が中臣鎌足なかとみのかまたりらに命じてつくらせた日本初法律のことです。現存せず内容は不明です。存在自体が怪しいとする説も有力だったりします。

一方、庚午年籍こうごねんじゃくは、天智てんじ天皇のもとで作られた日本初の全国規模の戸籍こせきです。残念ながらこちらも現存はしていません。

なお「戸籍こせき」とは、氏姓しせいを正す根本台帳のことですよ。つまり、うじかばねをちゃんと把握するための一番基本となる台帳のことですね。

中大兄皇子なかのおおえのみこ天智天皇てんじてんのう

【補足】
天智天皇は671年に死去
 → 皇位継承争いが発生

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「天武天皇/持統天皇の時代」の問題

天武てんむ天皇持統じとう天皇は夫婦です。天皇に即位した順番は「天武→持統」です。天武天皇が志なかばで死去すると、持統天皇は夫である天武天皇がやり残した事業を次々と完成させていきます

【問題37】天智天皇の死後、その子の( ① )と、天智天皇の弟にあたる( ② )のあいだで( ③ )と呼ばれる皇位継承争いが起こった。この争いでは( ② )が勝利をおさめ、天武天皇として即位した。[立教大・改題]

【解答】正解は①大友皇子おおとものみこ、②大海人皇子おおあまのみこ、③壬申じんしんらんです。

672年壬申の乱では天智てんじ天皇の弟の大海人皇子おおあまのみこが勝利し天武てんむ天皇(在位:673~686)として即位します。

壬申じんしんの乱は古代最大の皇位継承争いと言われています。

壬申の乱では、大豪族や中央豪族の支持を得ていた大友皇子おおとものみこを破ったことで、天皇の権力が大きく高まりました。

また、天武天皇は大臣をおかず、皇族を中心とする政治を行います。これを皇親政治こうしんせいじといいます。

天武てんむ天皇天皇皇族が中心となる政治を実現しようとした!=皇親政治こうしんせいじ

【問題38】672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子は、翌673年に(  )で即位して天武天皇となった。[中央大]

【解答】正解は飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやです。

【問題39】天武天皇は684年に(  )を制定し、豪族を天皇中心の身分秩序に編成する皇親政治を行った。[神奈川大・改題]

【解答】正解は八色やくさかばねです。

684年に制定された八色の姓は、天皇を中心とする政治を実現するための豪族の新しい身分制度です。

八色の姓は、皇族に近いほど高い地位につくものでした。

逆に八色の姓では、氏姓制度では最高位だったおみむらじは下位とされました。こうして天武てんむ天皇は天皇を中心とした中央集権を強力に推し進めました。

天武てんむ天皇天皇中心中央集権推進すいしん

【問題40】7世紀の発行と考えられる日本最古の貨幣を何というか?[同志社大・改題]

【解答】正解は富本銭ふほんせんです。

日本における最古の貨幣かへい和同開珎わどうかいちんだとずっと考えられていましたが、和同開珎より古い貨幣が作られていたことが、後から発覚しました。これが富本銭です。

【参考】和同開珎と富本銭の違い

【問題41】天武天皇の時代に完成し、その事業を引き継いだ持統天皇が689年に施行した「令」を何というか?[立命館大・改題]

【解答】正解は飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょうです。「りょう」とは現代の行政法のことです。

【問題42】690年に持統天皇が作らせた農民支配の根本台帳となった戸籍を何というか?[同志社大・改題]

【解答】正解は庚寅年籍こういんねんじゃくです。

庚寅年籍こういんねんじゃくは、班田収授はんでんしゅうじゅの前提となる農民支配の根本台帳です。

【問題43】持統天皇は中国の都城制をモデルにして694年に(  )へ遷都した。[國學院大・改題]

【解答】正解は藤原京ふじわらきょうです。694という年号も頻出ですよ!

お疲れ様でした!飛鳥時代に関する一問一答集はこれで終わりです。

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