9分でわかる遣隋使!『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説[日本史史料]

隋書倭国伝

この記事では、『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説します。

『隋書』倭国伝を理解すれば遣隋使も同時にマスターできるので、大学受験や定期テストなどに活用してください。

目次

『隋書』倭国伝の概要

まず「隋書ずいしょ」とは、7世紀に魏徴ぎちょうらが編纂した中国の歴史書です。

この「隋書」の一部に当時の日本についての記述があり、これが隋書ずいしょ倭国伝わこくでんと呼ばれています。

隋書倭国伝でとくに大切なのは、遣隋使けんずいしに関する記載内容です。

遣隋使の年表

ここで「遣隋使の歴史」を、年表形式で確認しておきましょう!

遣隋使の年表

第1回・遣隋使

使者不明

第2回・遣隋使

小野妹子が隋に対等外交を求める

第3回・遣隋使

小野妹子が再び隋へ向かう

第5回・遣隋使

犬上御田鍬 いぬがみのたすきが最後の遣隋使として隋に渡る

隋の滅亡、唐の時代へ

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『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説!

ここからは、各回の遣隋使の詳細を『隋書』倭国伝の本文とともに確認していきましょう。

第1回・遣隋使に関する記述

開皇二十年かいこうにじゅうねん倭王わおうせい阿毎あめあざな多利思比孤たりしひこ阿輩雞彌おおきみごうす。使つかいつかわしてけついたる。しょう所司しょしをして風俗ふうぞくはしむ。…

現代語訳西暦600年、倭王の姓はアメ、名は多利思比孤たりしひこが、大王と名乗り、使者を文帝のもとに派遣してきた。文帝は役人に命じ、日本の風俗について質問させた。

開皇二十年かいこうにじゅうねん」とは西暦600年のことです。第1回・遣隋使の使者は誰なのか分かっていません。

ただし現代語訳からも分かる通り、第1回・遣隋使のときの中国(隋)の皇帝は文帝ぶんていです。

また、倭王の名前は多利思比孤たりしひことありますが、これは男性名です。しかし当時の天皇は推古天皇すいこてんのう(在位:592年~628年)で、女性です。

なので、この「多利思比孤」が誰を指しているのかもよく分かっていません。

ちなみに遣隋使は全て推古天皇の時代に行われています。

また、推古天皇の時代の権力者は聖徳太子しょうとくたいし蘇我馬子そがのうまこです。

第2回・遣隋使に関する記述

大業三年だいぎょうさんねんおう多利思比孤たりしひこ使つかいつかわして朝貢ちょうこうす。

現代語訳西暦607年、倭の王、多利思比孤が使者を派遣し、朝貢してきた。

今回も倭王は多利思比孤たりしひこという男性名ですが、実際は推古天皇(女性)の時代の話です。

この607年の第2回・遣隋使が、有名な小野妹子おののいもこの遣隋使です。

「朝貢」とは定期的にお土産を持って挨拶に行くこと!

国書こくしょいわく「づるところ天子てんししょぼっするところ天子てんしいたす。つつがきや、云々うんぬん」と。ていこれよろこばず、鴻臚卿こうろけいいていわく「蛮夷ばんいしょ無礼ぶれいなるらば、もっぶんするなかれ」と。明年みょうねんじょう文林郎裴清ぶんりんろうはいせいつかわして倭国わこく使つかいせしむ。

現代語訳その国書には、「太陽の昇る所に住む天子から、太陽の沈む所に住む天子に手紙を出します。お元気でしょうか?」と書いてあった。隋の皇帝、煬帝はこれを見て不快になった。外交担当の鴻臚卿に「野蛮な国の国書に無礼なことが書いてあった、二度とこんな手紙を受け取るな」と命じた。しかし翌608年になると、煬帝は裴世清を日本に使者として送った。

小野妹子は非常に失礼な国書を持って隋の皇帝、煬帝ようだいのところへ派遣されました。

なにせその国書には、日本は「太陽の昇る国」、中国は「太陽の沈む国」と書いてあるわけですから。

なぜこのような失礼な国書を持っていったのか?

それは従来の朝貢外交を脱し、日本と中国の対等外交を目論んでいたからです。

そしてこの作戦は、見事成功します。

小野妹子は、首をはねられてもおかしくないレベルで中国に失礼な国書を持っていったわけですが、このとき中国は高句麗こうくりとの戦争でとても苦しんでいたので、このタイミングで日本を敵に回すのは得策ではないと考えたのです。

そこで中国は、この国書へのお礼の使者として、翌608年に裴世清はいせいせいを日本に派遣します。

こうした対等外交の成功は、推古天皇や聖徳太子の外交的勝利と言えるでしょう。

第3回・遣隋使

第3回・遣隋使の様子は『日本書紀』に書かれています。

『日本書紀』によれば、608年の9月に裴世清が中国に帰国します。

この裴世清の帰国に合わせて、小野妹子も再び隋へ向かいます。

このとき、留学生として高向玄理たかむこのげんり、留学僧として南淵請安みなみぶちしょうあんみんが同行します。

こうした留学生・留学僧は隋の滅亡と唐の建国を体験し、後の大化の改新に大きな影響を与えます。

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まとめ

  • 第1回・遣隋使は600年に行われた。
  • 607年の第2回・遣隋使では小野妹子が派遣され、中国に対等外交を求め、これに成功した。
  • 608年の第3回・遣隋使では裴世清の帰国に合わせて小野妹子が再び隋へ行った。

そして618年になると隋は滅亡してしまい、遣隋使の歴史は幕を下ろします。

その後、新たに中国に誕生した「唐」に対して、日本は遣唐使を派遣していくことになるのです。

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