この記事では、白村江の戦いを簡単に分かりやすく解説していきます。
結論から言えば、白村江の戦いは、日本軍と唐・新羅連合軍が朝鮮半島南部の白村江で戦った海戦のことです。
この海戦で日本は大敗し、この戦い以降、日本は朝鮮半島から撤退することになります。
まずは、白村江の戦いが起きるまでの歴史の流れを確認していきましょう。
斉明天皇の重祚
孝徳天皇が亡くなると、元皇極天皇が斉明天皇として重祚します。
重祚とは同じ人物が再び皇位につくことですね。また斉明天皇は中大兄皇子のお母さんです。
(※皇極天皇が斉明天皇として重祚した理由については、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)
百済の滅亡
その後、660年には唐・新羅連合軍によって百済が滅ぼされます。この滅亡した百済の生き残りであった豊璋がヤマト政権に救援を求めます。
660年にはすでに百済は滅亡しているのに、なぜ日本に援軍を要請したの?
百済の遺臣たちは、まだちょっと負けているくらいで立て直せると考えていたようだね。
斉明天皇の死没
救援要請を受けた斉明天皇(元皇極天皇)は大軍を引き連れて朝鮮半島に向かいますが、高齢だったこともあり、九州・筑紫の地で死没してしまいます。
中大兄皇子の称制
これを受けて中大兄皇子が皇太子のまま政治を行います。
つまり天皇はいない状態だった。こうした政治の仕方を称制といいます。
白村江の戦い
中大兄皇子の指示で、663年に朝廷軍が朝鮮半島に攻め込み惨敗します。これが白村江の戦いです。ちなみに「白村江」を「はくそんこう」と読んでもOKですよ。
あまりの大敗に、戻ってきた船はかなり少なかったと言われています。
なぜ日本は負けてしまったの?
これといった作戦らしい作戦もなく、情報もあまりなかった。さらには、日本の水軍の兵力も十分ではなく、唐・新羅連合軍を破れるわけがなかったんだね。
白村江の戦いで大敗した後、中大兄皇子は唐・新羅連合軍が日本に攻めてくると考え、まずは九州の拠点である大宰府の防御を固めます。
大宰府ってなんだっけ?
ヤマト朝廷の出先機関で九州における拠点だね。
具体的には、九州の大宰府周辺に水城、大野城、基肄城を築きます。
水城とは、巨大な堤防のことで全長約1km、高さは14mにもなります。
また大野城は、大宰府の北に築かれた朝鮮式山城です。基肄城は大宰府の南に設置された朝鮮式山城ですね。
また九州や対馬には、防人と呼ばれる農民兵士を配置します。さらに対馬~大和(奈良)にかけて、大野城や基肄城以外にも多数の朝鮮式山城をつくります。
対馬ってどこかしら?
対馬は九州と朝鮮半島の中間地点にある大きな島のことね。対外防衛の重要拠点で現在の日本でも対馬には自衛隊の基地があるよ。
さらに大阪湾から唐・新羅連合軍が攻めてくることを警戒して、難波から内陸の大津宮に遷都します。現在の滋賀県、琵琶湖のほとりですね。
そして668年になると、中大兄皇子はようやく天智天皇として即位します。
白村江の戦いに関する一問一答!
白村江の戦いに関連する一問一答を設置したので、腕試しにぜひ活用してください!
1.(①)年、倭・百済の連合軍は唐・新羅の連合軍と(②)で戦闘を行い大敗した。[明治大・改題]
【解答解説1】正解は①663年、②白村江です。
660年の時点で百済は滅びていますが、百済の遺臣・豊璋の要請で百済復興を目指し、日本軍は朝鮮半島に侵攻します。
しかし結果として、ボロ負けしてしまいます。
2.白村江の敗戦後、唐や新羅の反抗を恐れた朝廷は、巨大な堤防である( )を築いて大宰府の防備を固めた。[慶応大・改題]
【解答解説2】正解は水城です。
九州は、唐・新羅連合軍が攻めてくる可能性が一番高い地域だったので、大宰府の守りを固めるために大野城、基肄城といった朝鮮式山城も建造します。
3.唐・新羅連合軍の侵略を恐れた中大兄皇子は、国防の強化に努め、都を(①)に遷都し、(①)で(②)天皇として即位した。[法政大・改題]
【解答解説3】正解は①大津宮、②天智天皇です。
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