3分でわかる!白村江の戦いを簡単にわかりやすく解説【日本史】

白村江の戦い

この記事では、白村江はくすきのえの戦いを簡単に分かりやすく解説していきます。

結論から言えば、白村江の戦いは、日本軍と唐・新羅連合軍が朝鮮半島南部の白村江で戦った海戦のことです。

この海戦で日本は大敗し、この戦い以降、日本は朝鮮半島から撤退することになります。

白村江の戦い

まずは、白村江の戦いが起きるまでの歴史の流れを確認していきましょう。

目次

斉明天皇の重祚

孝徳こうとく天皇が亡くなると、元皇極こうぎょく天皇斉明天皇さいめいてんのうとして重祚ちょうそします。

重祚とは同じ人物が再び皇位につくことですね。また斉明天皇は中大兄皇子なかのおおえのみこのお母さんです。

(※皇極天皇が斉明天皇として重祚した理由については、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)

百済の滅亡

その後、660年にはとう新羅しらぎ連合軍によって百済くだらが滅ぼされます。この滅亡した百済の生き残りであった豊璋ほうしょうがヤマト政権に救援を求めます。

660年にはすでに百済は滅亡しているのに、なぜ日本に援軍を要請したの?

みちくさ

百済の遺臣いじんたちは、まだちょっと負けているくらいで立て直せると考えていたようだね。

斉明天皇の死没

救援要請を受けた斉明天皇(元皇極天皇)は大軍を引き連れて朝鮮半島に向かいますが、高齢だったこともあり、九州・筑紫の地で死没してしまいます。

中大兄皇子の称制

これを受けて中大兄皇子なかのおおえのみこが皇太子のまま政治を行います。

つまり天皇はいない状態だった。こうした政治の仕方を称制しょうせいといいます。

白村江の戦い

白村江の戦い

中大兄皇子の指示で、663年に朝廷軍が朝鮮半島に攻め込み惨敗します。これが白村江はくすきのえの戦いです。ちなみに「白村江」を「はくそんこう」と読んでもOKですよ。

あまりの大敗に、戻ってきた船はかなり少なかったと言われています。

なぜ日本は負けてしまったの?

みちくさ

これといった作戦らしい作戦もなく、情報もあまりなかった。さらには、日本の水軍の兵力も十分ではなく、唐・新羅連合軍を破れるわけがなかったんだね。

白村江の戦いで大敗した後、中大兄皇子は唐・新羅連合軍が日本に攻めてくると考え、まずは九州の拠点である大宰府だざいふの防御を固めます。

大宰府だざいふってなんだっけ?

みちくさ

ヤマト朝廷の出先機関で九州における拠点だね。

具体的には、九州の大宰府周辺に水城みずき大野城おおのじょう基肄城きいじょうを築きます。

水城とは、巨大な堤防のことで全長約1km、高さは14mにもなります。

また大野城は、大宰府の北に築かれた朝鮮式山城ちょうせんしきやまじろです。基肄城きいじょうは大宰府の南に設置された朝鮮式山城ちょうせんしきやまじろですね。

また九州や対馬には、防人さきもりと呼ばれる農民兵士を配置します。さらに対馬つしま~大和(奈良)にかけて、大野城や基肄城きいじょう以外にも多数の朝鮮式山城ちょうせんしきやまじろをつくります。

対馬つしまってどこかしら?

みちくさ

対馬つしまは九州と朝鮮半島の中間地点にある大きな島のことね。対外防衛の重要拠点で現在の日本でも対馬には自衛隊の基地があるよ。

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