「大化の改新」と「改新の詔」の内容を簡単にわかりやすく解説!(日本史史料)

大化の改新

この記事では大化たいか改新かいしん改新かいしんみことのりを超わかりやすく解説していきます!

みちくさ

「大化の改新」と「改新の詔」の内容は、セットで勉強した方が理解が深まるよ!

改新の詔の内容をすぐに知りたい方はコチラをクリック!

目次

蘇我氏の専横

推古天皇すいこてんのうが死去すると、593年には舒明天皇じょめいてんのうが即位します。

この頃、権力を欲しいままにしたのが蘇我氏そがしです。これを蘇我氏の専横せんおうといいます。

この頃の蘇我氏は具体的には誰なの?

みちくさ

お父さんである蘇我蝦夷そがのえみしと、その息子の蘇我入鹿そがのいるかだね。

この頃の蘇我氏は、天皇をしのぐほどの権力を持っていたと言われています。

強国・唐の登場と緊張する朝鮮半島情勢

一方、中国ではずいが滅亡し、618年とうが中国を統一します。

ここでなんで急に中国の話しになるの?

みちくさ

中国や朝鮮半島の情勢が、大化の改新の引き金になったからだよ!

唐は律令という法律を整備し非常に強大な力を持ちました。そして朝鮮半島の高句麗に圧力をかけます。

これにより、朝鮮半島は一気に緊張します。

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中央集権化による国力増強の必要性

こうした情勢を受けて、日本も国力を高めないといけない。

このためには、中国の唐と同様に律令りつりょうと呼ばれる法律を作って中央集権化を進めなくてはいけない、という状況でした。

ずい」や「とう」の知識を遣隋使遣唐使から学んでおり、進んだ中国と同じ政治の仕組みを作る必要性に気がついていたのです。

みちくさ

おとなりの唐という強国に対抗できるように、政治改革をする必要に迫られたんだね。

山背大兄王の殺害事件

この中央集権化の足かせになったのが蘇我氏の強すぎる権力でした。

皇極天皇こうぎょくてんのうのもとで絶大な権力をふるった蘇我入鹿そがのいるかは、非常に優秀だと評判だった聖徳太子(厩戸王うまやとおう)の子、山背大兄王やましろのおおえのおうを自殺に追い込みます。

なんで「山背大兄王」を殺害してしまったの?

次期天皇の最有力候補でとても優秀だった山背大兄王を殺害しておかないと、蘇我氏が自らの権力を維持できないのではないか?と考えたからです。

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大化の改新のスタート地点:乙巳いっしへん

このように蘇我氏の権力が最高潮に達していたころ、乙巳いっしへんと呼ばれる大きな事件が発生します。

中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたり蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろらが蘇我氏を滅ぼしたのです。

これは、権力を独占していた蘇我氏を滅ぼすことで、中央集権化をはかり政治改革を達成するためでした。

蘇我氏を滅ぼし唐のように律令りつりょうを整え、天皇中心の安定した政治体制を築こうとしたのです。

この一連のクーデター事件を乙巳の変といいます。645年に発生した乙巳の変こそ、大化の改新のスタート地点です。

みちくさ

乙巳の変に始まる一連の政治改革を大化の改新というんだね。
そして、乙巳の変の翌年には新政府により改新の詔が発布されるよ。

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改新の詔

ここからは、改新の詔が発布されるまでの流れ、そして改新の詔の内容について解説していきます。

孝徳天皇の即位と中大兄皇子の皇太子就任

乙巳の変後、新政府が立ち上がります。これにともない皇極天皇こうぎょくてんのうは退位します。

権力の中心が蘇我氏から中大兄皇子なかのおおえのみこに移ったのです。

中大兄皇子は皇極天皇の代わりに孝徳天皇こうとくてんのうを立て、自らは天皇にはならず、皇太子こうたいしとして実権を握ります。

なぜ中大兄皇子は天皇にならず皇太子の地位についたの?

蘇我氏を滅ぼすクーデターを起こし、豪族から土地を取り上げる政策を行おうとした中大兄皇子は政敵が多いため、天皇ではなく身動きの取りやすい皇太子の方が自分の理想の政治を行いやすいと考えたから、と言われています。

大化の改新のメンバー

中大兄皇子が皇太子になると、左大臣には阿倍内麻呂あべのうちまろ右大臣には蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろが、内臣うちつおみには中臣鎌足なかとみのかまたりが就きます。

さらに国博士くにのはかせには、隋・唐からの留学から帰ってきた高向玄理たかむこのげんりみんの2名が就任します。

国博士とは政治のブレーンのような役職ですね。先進国・中国の最新の知識を持ったこの2人が適任だったのです。

このとき中国にならって日本で初めて制定された元号が大化たいか」です。

新しい政治の権威付けとして、都が難波宮なにわのみや難破長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみや)に移されます。

「難波宮」と「難破長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみや」ってどう違うの?

みちくさ

同じ意味だよ。大学入試では「難破長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみや」の方が問われることも多いよ。
」の字が特殊だから、漢字要注意だね!

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646年・改新の詔の発布

そして646年の元旦に改新かいしんみことのりが発布されます。ここからは、その本文を読み解いていきましょう。

改新の詔・第1条

改新の詔の第1条です。まずは現代語訳を確認します。

改新の詔・第1条

いちいわく、昔在むかし天皇等てんのうらてたま子代こしろたみ処々ところどころ屯倉みやけおよび、ことにはおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこ村首むらのおびと所有たもて部曲かきべたみ処々ところどころ田荘たどころめよ。りて食封じきふ大夫だいふより以上いじょうたまこと、おのおのしなあらむ…

引用:『日本書紀』

【現代語訳】その一、「昔に天皇が置いた子代こしろの民、各地の屯倉みやけ、さらにおみむらじ伴造とものみやつこ国造くにのみやつこ村首むらのおびとなどの諸豪族の部曲かきべの民や田荘たどころを廃止せよ。そして、大夫だいふ以上の者には位に応じて食封じきふを与えることにする」

これは「改新の詔」っていう史料名で良いの?

みちくさ

いや、この史料の出典は『日本書紀にほんしょき』だよ。注意しよう!

簡単に言えば、改新の詔の第1条には「私地私民制を廃止して公地公民制へ移行せよ」という内容が書いてあります。

私地私民制ってなんだっけ?

みちくさ

要は「大王や豪族が個人の土地や民を所有して、それぞれ自分で管理する制度」のことだよ。

じゃあ「公地公民制」ってどういうこと?

みちくさ

「公地公民制」というのは、天皇の直轄地である屯倉みやけや豪族の私有地である田荘たどころも全部、国の持ち物という制度だね。

つまり、646年の改新の詔によって、今までの私地私民制が廃止されてしまいます。

私地私民制から公地公民制に移行することで中央集権化を進めようとしたのです。

ここで少し氏姓制度公地公民制を復習しておきましょう。

屯倉とは天皇の直轄地で、屯倉に住む人々は子代こしろ名代なしろと呼ばれました。これは天皇の私有民です。

一方、豪族の私有地を田荘たどころといい、そこで働く人々を部曲かきべというのでした。部曲は豪族の私有民です。

ちょっと待って。いきなり豪族から私有地や私有民を取り上げたら、豪族たちは困ってしまうんじゃないの?

みちくさ

その通りだね。そこで改新の詔には食封じきふを与えると書いてあるよ。食封とは税収のこと。
田荘や部曲を国の持ち物にする代わりに、税金からちゃんと給与をあげるから安心しなさい」ということだね!

ただし、『日本書紀』に書かれている「改新の詔」に関する記述はかなりあやしい。どうも本当のことがちゃんと書かれているわけではなさそうだと、現在では考えられています。

改新の詔には、当時存在しなかった郡司こおりのみやつこの文字や、この頃まだ整備されていなかった戸籍・計帳・班田収授の法の文字があり、本当に当時出されたのか疑問視されています。

しかし、中大兄皇子や孝徳天皇らが有力豪族たちを排除して、中央集権化を進めたのは事実です。

まだ改新の詔には続きがあります。

改新の詔・第2条

続いて第2条を確認していきましょう。

改新の詔・第2条

いわく、はじめて京師みさとおさめ、畿内きない国司くにのみこともち郡司こおりのみやつこ関塞せきそこ斥候うかみ防人さきもり駅馬はゆま伝馬つたわりうまき、および鈴契すずしるしつくり、山河やまかわさだめよ。…

引用:『日本書紀』

【現代語訳】その二、「初めて都城制とじょうせいを採用し、畿内きない・国司・郡司・関所・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設け、交通制度を創設し鈴契すずしるしを造れ」

現代語訳を読んでもちょっと意味が分からないのだけど?

みちくさ

要は「ちゃんとした首都を作って、交通を整えて、地方行政区画を整備せよ」と言っているだけだよ。
地方行政区画というのはこくぐんのことで、今で言う都道府県や市、村などのことだよ!

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改新の詔・第3条/第4条

改新の詔で重要な箇所はこれで最後になります。

改新の詔・第3条第4条

さんいわく、はじめて戸籍こせき計帳けいちょう班田収授はんでんしゅうじゅほうつくれ。…よんいわく、もと賦役えつきめて、調みつぎおこなへ。…

引用:『日本書紀』

【現代語訳】その三、「初めて戸籍・計帳をつくり、班田収授法の制度を設けよ」。…その四、「旧来の税制をやめて、調という新しい税制を施行しなさい」

第3条は、戸籍こせきを作って日本の人口を把握しようということです。

戸籍に基づいて計帳けいちょうというものも作ります。

計帳は、国民が一定の年齢に達したら田んぼを与えるようにするためのものです。

班田収授法はんでんしゅうじゅほうというのは、その国民が死んだ場合は、田んぼを国に返す制度です。

ポイントは「戸籍・計帳・班田収授法を創設せよ」と言っているだけで、「実際にはまだこれらが整備されていたわけではなかった」という点です。

第4条の調ちょうとは、これまで皆がバラバラに税金をとっていたけれど、統一的税制を施行しようということです。

みちくさ

このように、政治面だけでなく経済面でも中央集権化を目指したのが、「改新の詔」なんだね!

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大化の改新に関する一問一答!(乙巳の変~改新の詔の6題)

一問一答で重要ポイントを暗記しよう!

大化の改新に関する一問一答を6題設置しました。

問題をタップすると解答が表示されるので、ぜひ挑戦してみてください!

【問題1】推古天皇が死去した時、田村皇子や、厩戸王の子である(  )らが、有力な皇位継承者として存在したが、643年には蘇我入鹿によって斑鳩宮で滅ぼされることになる。[立教大・改題]

【解答】正解は山背大兄王やましろのおおえのおうです。田村皇子たむらのみことは舒明天皇じょめいてんのうのことです。また厩戸王うまやとおうは聖徳太子のことですね。

非常に有能だった山背大兄王が天皇になってしまうと、蘇我氏は権力を失いかねない。蘇我氏にとっては、操り人形になる、あまり優秀でない天皇の方が都合が良かったのです。

ちなみに斑鳩宮は「いかるがのみや」と読みます。

【問題2】645年に起きた(  )の後、孝徳天皇が即位すると、翌年には「改新の詔」が宣布され、唐の制度の基づく基本政策が明示された。[成城大・改題]

【解答】正解は乙巳いっしへんです。年号も重要ですよ。645年です。

この中大兄皇子らのクーデター事件から始まる一連の政治改革を大化の改新といいます。

「改新の詔」が発布された年号も重要です。乙巳の変の翌年646年ですね。

【問題3】645年の大化改新は、時の権力者蘇我(①)とその子蘇我入鹿の専横に対して、(②)皇子や中臣鎌足らが律令国家の確立を目標に起こしたものと言われている。新しい政権には遣隋使に従って大陸に渡り、長期の滞在を終えて帰国した留学生の高向玄理や僧の(③)が国博士として参加したと伝えられている。[関西大・改題]

【解答】正解は①蘇我蝦夷そがのえみし、②中大兄皇子なかのおおえのみこ、③みんです。蘇我蝦夷は蘇我入鹿そがのいるかのお父さんですね。

そして中大兄皇子なかのおおえのみこ中臣鎌足なかとみのかまたり蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろが乙巳の変で蘇我氏を打倒します。

その後発足された新政府では、遣隋使で隋・唐の政治制度を学んだ高向玄理たかむこのげんりみんの2名が国博士くにのはかせとして国政のブレーンになります。高向玄理は留学生で、旻は留学僧です。

【問題4】唐が律令法に基づく高度な官僚機構による中央集権国家を発展させ、周辺の諸国を圧迫しはじめると、周辺諸国は中央集権と国内統一の必要に迫られた。日本でも7世紀半ばに中央集権の動きが起こった。これら一連の政治改革を(  )という。[関西学院大・改題]

【解答】正解は大化たいか改新かいしんです。

【問題5】646年に発布された「改新の詔」で、土地・人民は国家が所有するという制度が定められた。これを(  )という。[聖心女子大]

【解答】正解は公地公民制こうちこうみんせいです。超頻出問題ですね。

「改新の詔」では私地私民制が廃止され、公地公民制が導入されたのでした。

【問題6】上級官吏は、一定数の戸が収める税を給与として与えられた。この給与を何というか?

【解答】正解は食封じきふです。

大化の改新以前は、豪族は私有地である田荘たどころ、私有民である部曲かきべから収入を得ていたのですが、公地公民制で土地や民の私有は禁止されました。

その代わりに国家が集めた税金から食封じきふという形で、給与が支給されるようになります。

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