【奈良時代完全まとめ】簡単に分かりやすく解説!【日本史B】

奈良時代

この記事は、大学受験や歴史能力検定に対応した、奈良時代の完全まとめです。

もちろん、教養として日本史を学びなおしたい方にも、最適な内容になっています。

是非、当記事を活用して奈良時代を「理解・暗記」していただければ幸いです!

※記事の最後には暗記用の一問一答集を掲載しています。

目次

奈良時代はいつからいつまで?

奈良時代というのは、710年の元明天皇の平城京遷都から、794年の桓武天皇による平安京遷都までの期間です。

つまり、奈良時代というのはその名の通り、奈良県の平城京に都が置かれ、政治の中心だった時代のことをいいます。

奈良に都が置かれたのは、100年弱の間だったんですね。

年表から、奈良時代までの流れを確認してみましょう。

奈良時代までの年表

弥生時代

・水稲耕作の本格化、金属器の使用、弥生土器の使用

古墳時代

・4世紀にヤマト政権が成立

・前期(4世紀)・中期(5世紀)は前方後円墳中心、後期(6世紀)は円墳や横穴墓が中心

飛鳥時代

・推古天皇から元明天皇まで

・蘇我氏 vs 物部氏、蘇我氏の権力独占、律令制度の導入と大化の改新

奈良時代

・710年の元明天皇の平城京遷都から、794年の桓武天皇の平安京遷都まで

このように、奈良時代は元明天皇の平城京遷都から始まります。

奈良時代の始めは元明天皇

元明天皇とは

飛鳥時代の終わりに、文武天皇が大宝律令を制定しました。

文武天皇が亡くなった時点では、その男の子(将来の聖武天皇)は天皇に即位するには幼すぎました。

そこで、文武天皇の母親が元明天皇として即位しました。

母親ということで、女性の天皇ですね。

元明天皇の時代の権力者

元明天皇の時代には、藤原ふじわらの不比等ふひとが権力を握り、政治を行っていました。

藤原不比等は、中臣鎌足なかとみのかまたり藤原鎌足ふじわらのかまたり)の子供ですね。

※補足

中大兄皇子なかのおおえのみこと共に大化の改新で活躍した中臣鎌足は、死の直前に藤原性を与えられ藤原鎌足になります。つまり中臣鎌足が藤原氏の一番最初の人で、平安時代に隆盛を誇る藤原道長や藤原頼通ふじわらのよりみちも中臣鎌足の子孫になります。

藤原不比等は、飛鳥時代に刑部親王おさかべしんのうとともに大宝律令の作成に当たった人物でした。

奈良時代の政治史を一言で表すと、藤原氏の浮き沈みがとても激しい時代です。藤原氏とその反対勢力との対立の時代とも言えます。また国家運営の面では、大化の改新以後、一生懸命に作り上げてきた律令国家がうまく機能しなくなり不安定になっていく時期になります。

平城京への遷都

元明天皇の時代には、それまでの藤原京から、平城京へ遷都が行われます。

平城京は奈良の都ですので、ここからが奈良時代、ということになります。

平城京
平城京

平城京は、唐の都である長安をモデルとして設計されました。

碁盤の目のように東西南北に道路が区画されており、これを条坊制と呼びます。

(※田んぼがマス目状になっているのは、条里制と言います。)

都の中央を南北に走る朱雀大路の東が左京、西が右京です。(平城宮の天皇から見て、東側は左、西側は右にあるためこのような名前が付いています。)

  1. 東側→左京
  2. 西側→右京

平城京の北側中央には政治の中心となる大内裏だいだいりがあり、さらにその中心を平城宮へいじょうきゅうと言います。

平城宮には、天皇の住まいである内裏だいりや、政務・儀式の中心となる朝堂院ちょうどういんがあります。

さらに朝堂院の中には、重要な儀式を執り行う大極殿だいごくでんがあります。

(※平城京については、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)

平城京は、京都に対して南にあるため、南都と呼ばれます。

当時、藤原京にあった寺院の多くも、この時に平城京に移築されました。例えば、興福寺・大安寺だいあんじ・薬師寺・元興寺がんごうじがそれにあたります。

さらに、東大寺・西大寺・法隆寺を含めたものを、南都七大寺と呼びます。

ちなみに、近年の平城京の発掘調査の結果、1980年代に長屋王の邸宅跡が見つかり、そこから3万点を超える大量の木簡が出土しています。

語呂合わせ

710年に「藤原京ふじわらきょう平城京へいじょうきょう」への遷都が行われると、奈良時代が始まります。「なんと710立派な平城京」というやつですね。

交通の整備

律令体制をしき中央集権を実現するには交通の整備は重要な課題でした。

そこで、元明天皇は官道かんどう(国が造る国道のこと)を整備しました。都を中心に日本各地に広がる道路網ですね。

この官道かんどうを維持する仕組みとして、駅制が施行されました。

駅制えきせいでは、一定距離(16km)ごとに駅家うまやを設置しました。

これは現在で言えば道の駅のような存在で、食事や休憩ができるようになっていました。

駅家うまやには「馬」が常備されていて、馬を乗り継いで移動することができ、公用の役人の移動や、文書の伝達に用いられました。

この駅家は、普通の一般人は利用できず、公用の役人だけに限られていました。

現在も行われている「駅伝」というのは、この駅家うまやが名前の由来になっています。

和同開珎の発行

和同開珎
(Wikipediaより引用)

元明天皇の時代には、和同開珎わどうかいちんが作られます。

和同開珎は、日本初の流通を目的とした本格的な貨幣となります。

(その前にも富本銭はありましたが、流通は目的とされていませんでした。)

武蔵国(現在の東京都、あるいは埼玉県)で新しい銅鉱山が発見され、銅が献上されたことで、「新しいお金を作ろう!」となったのです。

これにちなんで年号も、和銅と改められました。

銅が献上されたので年号は「和銅」ですが、貨幣は「和開珎」です、漢字注意ですよ!!

なぜ年号と貨幣の漢字が異なるのかは、コチラの記事で解説されています。)

和同開珎を最初として、これ以降に造られる乾元大宝けんげんたいほうまでの12種類の貨幣を合わせて皇朝十二銭こうちょうじゅうにせんと言います。

和同開珎の鋳造・発行の目的の1つは平城京造営の資金調達でした。

和同開珎は銅銭だけでなく、銀銭ぎんせんもありました。時々大学入試でも出題されるため、注意しておきましょう!

蓄銭叙位令

せっかくお金を流通させるために作った和同開珎ですが、なかなかみんなが使ってくれません。

和同開珎は、銅が取れた、という国家の都合で作られたものであり、一般の庶民はこれまで通り物々交換で何の問題もなかったのです。

そこで政府は、和同開珎の流通を促すため、711年に蓄銭叙位令が発布されます。

蓄銭叙位令とは、お金を貯めた人に位を与える、という制度です。

しかし、この蓄銭叙位令は失敗します。お金を使わせるために作ったのに、位を得るため皆がお金を貯め込むばかりで使わなかったからです。

語呂合わせ

711年:蓄銭叙位令→「お金がないー711!蓄銭叙位令

支配領域の拡大

この時代には、中央政府(奈良)から遠く離れた地域は、政府の支配が十分に及んでいませんでした。

蝦夷支配

朝廷は東北地方の蝦夷えみし支配を強化する作戦を考えます。

東北地方には、これまでにも陸奥の国が置かれていましたが、陸奥の国の領域はとても広いため2つに分けます。

712年には日本海側(現在の山形県や秋田県)に新たに出羽国でわのくにを置くことで、陸奥国むつのくには太平洋側のみとし、支配力を強化しました。

そして出羽国の拠点とする、秋田城が築かれます。

隼人支配

九州南部の隼人はやとを支配するため、713年には鹿児島県の東の方に大隅国おおすみのくにを設置します。

●712年:東北に出羽国でわのくにを設置
●713年:南九州に大隅国おおすみのくにを設置

古事記の作成

ずば抜けた記憶力で天皇の系譜や伝承を覚えていた稗田ひえだの阿礼あれから、太安万侶おおのやすまろがその内容を取材し記述したのが古事記こじきです。

古事記は現存する日本最古の歴史書であり、712年に完成し、元明天皇に献上されています。

この古事記には、天照大御神あまてらすおおみかみの話や、伊弉諾尊いざなぎのみことなどの話が記載されています。

語呂合わせ

ヒエ(稗)ってご存知ですか?縄文時代から食べられている日本最古の穀物ですよ。お米と同じで納豆とあいそうですよね?「納豆に712稗!稗田阿礼の古事記編纂!」と覚えましょう!

ここまでで、元明天皇の時代は終わりです。

元正天皇の時代

元正天皇とは

元明天皇から、元正天皇になります。

元ー元と同じ字が続くので、覚えやすいですね!
順番は、「治」→「大」の時代順と同じ、という覚え方もありますよ!

元正天皇は、文武天皇の姉であり、元正天皇から女性の天皇が続くことになります。

元正天皇の系譜

飛鳥時代の最後は文武天皇でしたが、文武天皇は25歳で亡くなってしまいます。
しかしその子である将来の聖武天皇はまだ幼かったため、中継ぎとして文武天皇の母親が元明天皇として即位していました。
元明天皇が高齢になると、まだ若い聖武天皇に代わって文武天皇の姉が元正天皇として即位します。

元正天皇の時代の最初の権力者

元明天皇の時代に続き、藤原ふじわらの不比等ふひとが政治の中心を担っています。

繰り返しますが、藤原不比等は中臣鎌足なかとみのかまたり藤原鎌足ふじわらのかまたり)の子供ですよ!

養老律令の作成

718年に、元正天皇のもとで藤原不比等は養老律令ようろうりつりょうという法律を完成させます。

しかし、藤原不比等が死亡してしまったなどの諸事情によって、この養老律令はすぐには施工されず放置されます。

結局、実際に施行されたのは、なんと約40年後の757年です。

養老律令を完成させた718年
養老律令が施行された757年
どちらも試験に出題されますよ!!

語呂合わせ

まず養老律令の完成については、「施行はないわ718!養老律令の制定」と覚えましょう!
さらにそこから約40年後が養老律令の施行ですよね?
5は「いつつ」とも言うので「40年後はさすがにないな757養老律令の施行」というゴロ合わせができますね!

養老律令の史料と言えば、『りょうの義解ぎげ』です。令義解は養老律令のうちの「令(行政法)」の注釈書で833年に清原夏野きよはらのなつのが記したと考えられています。

日本書紀の作成

元正天皇の時代の720年に、日本書紀が完成します。

作成したのが舎人親王とねりしんのうで、神代から持統天皇までが収録されています。

怒った出来事を年代順に記述する編年体で作成されています。

編年体に対して、「誰々」や「ある特定の国」の情報をまとめて書かれたものを紀伝体という。

元正天皇の時代の権力者の変遷

藤原不比等が没したことで、権力者が長屋王へと移ります。

これは、藤原氏に不満を抱いていた勢力が皇族出身の長屋王のもとに集まったからです。

律令国家の動揺

律令国家りつりょうこっかの土台は公地公民制こうちこうみんせいです。

公地公民制とは、「土地・人民は国の持ち物」という原則です。

また、公地公民制で重要な班田収授はんでんしゅうじゅとは、農民に土地を貸し与え、死亡したら国に土地を返す仕組みです。

その中で、農民は与えられた土地を耕し、国に税を納めていました。

農民に貸し与える土地のことを口分田くぶんでんといいます。口分田くぶんでんはあくまで国の持ち物です。

この税負担が非常に重かったため、税負担を逃れるために逃げ出す人が続出しました。

納税した後には、農民たち自身が生きていくのに必要な食料さえ不足するような状況だったからです。

なお、口分田くぶんでんを捨てて逃げ出すことを浮浪ふろう逃亡とうぼうといいます。

浮浪:いつの間にか別の地域に住み着き、口分田は捨てているが、調・庸は払っていること。
逃亡:行方が分からなくなること。

こうして公地公民制がうまく機能しなくなると律令国家崩壊へと向かっていくのです

その結果、税収が減り、政府は財政難に苦しむことになります。そこで長屋王ながやおう税収を回復させるための土地改革に取り組みます。

土地改革①百万町歩開墾計画

百万町歩開墾計画の失敗

農民の相次ぐ浮浪ふろう逃亡とうぼう人口の増加が原因で口分田くぶんでんはどんどん不足していきます。また貴族や豪族が不正に口分田を私有したこともあり、ますます口分田が不足します。

この苦境をなんとか打開すべく、長屋王は口分田を増やす計画を立てます。

それが722年の百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかくです。

開墾かいこん」とは山林や原野を切りひらいて、新しく田畑を作ることです。

しかしこの計画は結果的に失敗します。

当時の日本全国の面積が88万町歩であり、日本を全部田んぼにしても足りません。

あまりにも壮大な計画過ぎて、そもそも実行が難しかったからです。

また、農民たちにとっても農地を開墾かいこんするメリットがとくになく、農地を増やす気にはなれませんでした。

その結果、1000町歩すら開墾することができず、失敗に終わりました。

語呂合わせ

722年:百万町歩開墾計画→「何に722百万使ったの?百万町歩開墾計画!」

土地改革②三世一身の法

三世一身の法のイメージ図

722年百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかくが失敗に終わり、口分田の不足の問題がいまだ解決していません。

そこで長屋王は、翌723年に三世一身さんぜいっしんほうを発表します。

三世一身の法は、養老七年ようろうななねんきゃくとも呼ばれます。

三世一身の法とは、新たに灌漑施設かんがいしせつ(田んぼに水を引く施設)を作って開墾かいこんした土地には3世代、すでにある灌漑施設を利用して開墾した土地には1世代私有を認める制度です。

これまでの口分田は、あくまで国から貸し与えられるものであり、田んぼは自分の所有物ではありませんでした。

ですが、もし私有が認められるのであれば、新しい田んぼを開拓するモチベーションが生まれます。

百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかくの失敗に学んで、人々に農地を開墾するメリットを与えたのですね。

この三世一身の法は、「土地と人民は国家のものである」という公地公民の原則に反しますが、口分田の不足に悩む政府は、仕方なくこの法律を施行したわけです。

しかし結局、この三世一身の法も失敗に終わります。

私有はあくまで期限付きだったので、期限が近付くと農地が再び荒れるといった制度上の不具合が出てきたからです。

この百万町歩開墾計画と三世一身の法の失敗を受けて、次の聖武天皇の時代に墾田永年私財法が制定されるのです。

三世一身法の史料は大学入試でもよく出題されるので、より詳しい解説を知りたい方はコチラの記事をご確認ください。)

語呂合わせ

三世一身の法が制定された723年は、「三世一身じゃ、なにさ723、結局は国のもの」というゴロで覚えると覚えやすいですね!

  • 722年:百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく➡失敗
  • 723年:三世一身さんぜいっしんほう➡失敗

ここまでで、元正天皇の時代は終わりです。

聖武天皇の時代

聖武天皇とは

ここまでは、まだ幼かった将来の聖武天皇に代わって元明天皇・元正天皇が即位してきました。

元正天皇の譲位を受けて、聖武天皇が即位します。

藤原氏の復活、藤原四子とは?

冒頭で「奈良時代は藤原氏の浮き沈みがとても激しい時代」だとお伝えしました。

元正天皇の時代に藤原不比等が没したことで長屋王に権力が移っていましたが、聖武しょうむ天皇の時代になると、藤原氏は再び権力を握ります。

聖武しょうむ天皇の母親は藤原不比等の娘だったので、聖武天皇から見ると、藤原不比等は祖父にあたります。

つまり聖武天皇は藤原氏の家系です。そのため、親戚でもあり祖父の子でもある藤原四子ふじわらのししが権力を持つようになるのです。

藤原四子ふじわらのししとは具体的には、次の4人のことです。どれも入試頻出ですよ!

  • 藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ南家なんけ
  • 藤原房前ふじわらのふささき北家ほっけ
  • 藤原麻呂ふじわらのまろ京家きょうけ
  • 藤原宇合ふじわらのうまかい式家しきけ

藤原四子の権力強化

聖武天皇の時代の初期には、長屋王はまだ権力の座にいました。

この長屋王を邪魔に思った藤原四子ふじわらのししは729年に長屋王に謀反むほんの罪を着せて自害させます。

これを長屋王ながやおうへんといいます。

光明子

長屋王を滅ぼし、無事に権力を固めた藤原四子ですが、さらに権力を強化するために今度は自分たちの妹にあたる光明子こうみょうし聖武しょうむ天皇の皇后こうごうにします。

【皇后とは】
当時の天皇には何人もの妻がいますが、皇后こうごうという立場は特別で、皇族だけがなることのできる正妻せいさいのことです。つまり皇后とは第一位の妻のことを言います。

光明子が皇后になれた理由

藤原氏は中臣鎌足(藤原鎌足)をおやとする一族ですから、皇族ではなく「貴族」です。光明子こうみょうしは藤原四子の妹ですから、「貴族」の娘です。

皇后になれるのは皇族だけなので、光明子は普通、皇后にはなれないのですが、長屋王とその一族を全て殺すことで、無理矢理に光明子を皇后にしたのです。

これにより藤原四子の権力は確かなものになります。

729年:長屋王の変光明子皇后に!

語呂合わせ

きっと藤原四子は何食わぬ顔をして長屋王に謀反の罪を着せたに違いありませんね?

ここで語呂合わせです。「何食729わぬ顔で謀反の罪!長屋王の変!

藤原四子の病死

せっかく権力を握った藤原四子ですが、737年に4人とも病気で死去してしまいます。

原因は伝染病で、おそらく天然痘てんねんとうだと考えられており、新羅から入ってきたとも言われています。

語呂合わせ

一度に重臣が4人も亡くなるのは、只事ではありません。

そこで語呂合わせです。「なみ73だ、みだで四子没!

橘諸兄

藤原四子が亡くなった翌年の738年、皇族出身の橘諸兄たちばなのもろえが時の権力者になります。

橘諸兄たちばなのもろえは、唐への留学で先進的な知識を学んだ吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうに政治を手伝わせます。

藤原広嗣の乱

藤原四子の1人に藤原宇合ふじわらのうまかいがいましたね。

宇合うまかいの子である藤原広嗣ふじわらのひろつぐは、当時は九州の太宰府だざいふにいましたが、橘諸兄たちばなのもろえらに反発し740年に反乱を起こします。

これを藤原広嗣ふじわらひろつぐらんといいます。

しかし、この「藤原広嗣の乱」は鎮圧され、藤原広嗣は死去してしまいます。

聖武天皇の不幸

聖武しょうむ天皇は藤原氏の家系です。

にもかかわらず政治を任せた藤原四子は相次いで病死し、さらに藤原氏から藤原広嗣のような反乱者まで出てしまったわけです。

こうした出来事は聖武天皇に大きなショックを与えました

思い悩んだ聖武天皇は不安からか、次々と都を移します。

聖武天皇の遷都

【聖武天皇の相次ぐ都の遷都】
平城京恭仁京くにきょう難波宮なにわのみや紫香楽宮しがらきのみや平城京

「くに→なにわ→しがらき→へいじょう、と1文字ずつ増えていく!」と覚えると、覚えやすいです!

仏教政治の推進

さらに聖武天皇は国土の平安を願い仏教の力で国を治めようと考えます。これを鎮護国家ちんごこっか思想といいます。

具体的には、741年に国分寺建立こくぶんじこんりゅうみことのりを出し、全国にを作ります。

それだけではなく、743年には大仏造立だいぶつぞうりゅうみことのりも発布します。

語呂合わせ

きっと相次ぐ不幸で聖武天皇は落ち込み、とてもむなしい気分になっていたはずです。

そこで、「とてもむなしい741国分寺建立の詔」と覚えておきましょう。

土地改革③墾田永年私財法

口分田の不足に悩んだ朝廷は、長屋王が権力者だったときに百万町歩開墾計画、そして三世一身の法という2つの政策を発表しますが失敗に終わっていました。

この失敗を踏まえて、今度は橘諸兄たちばなのもろえ政権のもとで743年に墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうが出されます。

これは開墾した土地を永久に私有することができる制度です。

墾田こんでんとは新たに開かれた田地のことですよ。つまり新規に開墾かいこんした土地のことですね。

語呂合わせ

墾田永年私財法では土地の永久私有を認め、土地の国有を諦めましたよね。

そこで、「国有はなしさ743、墾田永年私財法!」と暗記しましょう。

墾田は輸租田の一種

ただ「墾田は永久私有できる!」といっても、税は納めなければいけません。

税としてを納めなければいけない田を輸租田ゆそでんといいます。ですから墾田こんでん輸租田ゆそでんの一種です。

とは田1段につき2そく2の収穫物を納める税のことです。
租を納めることが定められた田地を輸租田といいます。口分田も輸租田の一種です。

公地公民制の崩壊

土地の永久私有が許可されたことにより、貴族・寺社・有力者は人を雇って私有地を拡大します

公地公民制では土地は国家の持ち物ですが、このルールから外れた大規模な私有地が登場する。

これを荘園しょうえんといいます。とくに墾田永年私財法の影響で登場した荘園しょうえん初期荘園しょきしょうえんといいます。

その結果、律令国家の土台である公地公民制は完全に崩壊してしまいます。

貴族が私有地を広げるっていうのはわかるんだけど、寺社が大規模な私有地を持つってどういうこと?

もともと推古天皇のころには、お寺が運営費用を稼ぐために寺田じでんで農作物をつくっていたんだ。

つまりお寺や神社が農業を営むのは普通のことだったの?

そうだね。そして墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう墾田こんでんの永久私有が許可されると、大規模なお寺や神社は農民を雇って、積極的に田地の開発を進めたんだよ。

そっかー。そんな感じで、私有地をどんどん広げていったものを荘園しょうえん初期荘園しょきしょうえん)と呼ぶんだね!


墾田永年私財法の史料問題は入試超頻出です!三世一身の法の史料と勘違いしがちなので注意してください。

大学受験を目指す方はコチラの記事で墾田永年私財法の史料を必ず確認しておきたいですね!

元明天皇~聖武天皇のまとめ

ここまでの解説の中で、次々に権力者が交代して混乱してしまうかもしれません。

ここでいったん元明天皇~聖武天皇までの権力者の移り変わりを整理していきましょう!

まず天皇の順番を確認します。

【奈良時代の天皇の順序】
元明げんめい天皇元正げんしょう天皇聖武しょうむ天皇

次に権力者の順番のおさらいです。

元明天皇~聖武天皇の時代の権力者

藤原不比等

・藤原不比等は、中臣鎌足(藤原鎌足)の子。

藤原不比等→長屋王

藤原不比等の死後、藤原氏が権力を失い皇族出身の長屋王が実権を握る。

長屋王→藤原四子→橘諸兄

・光明子を皇后にするため、藤原四子が729年に「長屋王の変」で長屋王を自害に追い込む。藤原氏が復活するも藤原四子は病死してしまう。その後、皇族出身の橘諸兄が実権を握る。これに対し藤原広嗣ふじわらのひろつぐが反乱を起こすも失敗に終わる。

奈良時代は、本当に藤原氏の浮き沈みが激しいことが分かるね。

次の孝謙天皇以降も、藤原氏の浮き沈みが続きますが、最終的には藤原氏に権力の座が戻ります。

孝謙天皇の時代

孝謙こうけん天皇(在位749~758)の父親聖武天皇です。

孝謙天皇は聖武天皇のなので女性の天皇です。また孝謙こうけん天皇母親光明子です。

光明子は藤原四子の妹でしたね。つまり光明子は藤原氏の人間です。

このとき光明子は光明皇太后こうみょうこうたいごうという立場で、政治の実権を握ります。

孝謙こうけん天皇の母である光明皇太后こうみょうこうたいごうが政治の実権を握った!

藤原仲麻呂の権力拡大

光明皇太后こうみょうこうたいごうは、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ紫微中台しびちゅうだいという役所の長官に就任させ、非常に強い権限を持たせます。

藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ(南家)の子です。藤原武智麻呂は藤原四子の一人でしたね。

そして756年には、藤原仲麻呂が橘諸兄を政権から引きずりおろし時の権力者となります

翌757年、藤原不比等が完成させた養老律令ようろうりつりょう藤原仲麻呂ふじわらのなかまろによってようやく施行されます。

同じく757年に、仲麻呂政権に不満を持った橘諸兄たちばなのもろえの子の橘奈良麻呂たちばなのならまろが反乱を起こしますが、失敗に終わります。

こうして、藤原仲麻呂の権力は絶大なものとなり、藤原氏が再び政治の中心に復帰します

孝謙こうけん天皇の時代の権力者は藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ

淳仁天皇の時代

淳仁天皇の即位

藤原仲麻呂は孝謙天皇と対立します。そこで、孝謙天皇を退位させます。

これによって、孝謙天皇は孝謙上皇こうけんじょうこうとなります。

そして仲麻呂は自分の思い通りに動いてくれる淳仁じゅんにん天皇を立てます。

そして、淳仁天皇は藤原仲麻呂に恵美押勝えみのおしかつの名を与えます。

淳仁天皇の父は舎人とねり親王しんのうであり、天皇ではありません。
つまり、藤原仲麻呂のおかげで天皇になれたので、天皇といっても仲麻呂の言いなりのような状態でした。

孝謙上皇と道鏡

一方、孝謙上皇は自分の病気を熱心に看病してくれた道鏡どうきょうという僧侶そうりょを重用します。

また当然ですが、孝謙上皇は自分を天皇の位から引きずりおろした藤原仲麻呂(恵美押勝えみのおしかつ)を良く思っていません。

光明皇太后こうみょうこうたいごうの死去により藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力の土台を失うと、孝謙上皇のパートナーである道鏡どうきょうが勢力を拡大したわけです。

恵美押勝と道鏡の対立

その結果、

淳仁じゅんにん天皇&恵美押勝えみのおしかつ
   VS
孝謙上皇こうけんじょうこう道鏡どうきょう

という構図ができあがります。

藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ恵美押勝えみのおしかつ

恵美押勝の乱

藤原仲麻呂(恵美押勝)は道鏡を政治の世界から追い出そうと考え、764年に恵美押勝えみのおしかつらんを起こします。

この戦いは非常に激しいものでしたが、結果的に藤原仲麻呂(恵美押勝)は敗死します。

語呂合わせ

764年に藤原仲麻呂(恵美押勝)は敗れます。

「仲麻呂(かます、恵美押勝えみのおしかつの乱!」と暗記しましょう。

また、淳仁天皇は淡路あわじに流されてしまいます。

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