光明子と光明皇太后の違いを簡単にわかりやすく解説!【貴族から皇后へ】

光明子と光明皇太后の違い

この記事では、光明子と光明皇太后について簡単にわかりやすく解説します。

目次

光明子と光明皇太后の違い

結論から言えば、「光明子=光明皇太后」です!どちらも同一人物です。

ここから、その詳細を解説します。

光明子とは

光明子こうみょうし藤原不比等ふじわらのふひとの子です。同時に藤原四子ふじわらのししの妹でもあります。

長屋王ながやおうへんの直後、光明子は人臣じんしんでありながら天皇の皇后こうごうになります。

人臣とは君主に仕える身分であり、皇族ではありません。この奈良時代までは、皇后には皇族の女性しかなる事ができませんでした。

しかし当時権力を握っていた藤原四子の力によって、皇族ではなく、貴族の一人でしかない光明子が初めて天皇の皇后になるのです。

皇后こうごうとは、天皇の正妻です。
光明皇后以降は、藤原氏出身者が多数を占めるようになりました。

このとき光明子を皇后に迎えたのは、聖武しょうむ天皇です。

光明皇太后とは

749年に聖武しょうむ天皇が退位し、孝謙こうけん天皇が即位すると、光明子は光明皇太后こうみょうこうたいごうという立場で強い権力を握ります。

皇太后こうたいごうとは、前天皇の皇后のことです。

光明皇太后こうみょうこうたいごうは藤原氏の一族だったので、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ紫微中台しびちゅうだいの長官に任命し、強力な権限を持たせました。

光明皇太后のバックアップで権力を強めた藤原仲麻呂ふじわらのなかまろは、756年には橘諸兄たちばなのもろえを政権から追い出し、時の権力者になります。

さらに、757年橘奈良麻呂たちばなのならまろの反乱を鎮圧することで藤原仲麻呂は権力を確かなものにしますが、光明皇太后が760年に死去すると、権力の土台を失ってしまいます。

その結果、孝謙上皇こうけんじょうこうの後ろ盾を得た道鏡どうきょうが勢力を拡大します。

光明子(光明皇太后)の人物像

光明皇后
下村観山によって描かれた『光明皇后』
(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)

ここまで述べてきたように、光明子は権力闘争に参加した野心的な人物として解説される一方で、「慈悲の心を持った皇后」として語られることも多いです。

光明子は仏教の信仰が厚く、悲田院ひでんいん施薬院せやくいんを設置して、孤児や病人を救ったとされています。

悲田院:貧しい人や孤児の救済施設。
施薬院:貧しい病人を治療した施設。

さらには、光明子が自ら貧しい病人の垢を洗い、うみを口で吸いとった、という逸話も残っています。

光明子と光明皇太后の違いのまとめ

  • 光明子と光明皇太后は同一人物!
  • 光明子は、聖武天皇の皇太子時代に結婚し、聖武天皇が即位したことで皇后になり、聖武天皇が退位したことで光明皇太后となった。

これが光明子と光明皇太后の違いです。

光明子に関する一問一答!

一問一答で重要ポイントを暗記しよう!

光明子に関する一問一答を2題設置しました。

問題をタップすると解答が表示されるので、ぜひ挑戦してみてください!

【問題1】空所に適切な語句を入れよ。(同志社大 改題)

「聖武天皇が即位すると、藤原不比等の娘の一人である(  )が聖武天皇夫人となり、藤原氏らによりその立后が画策された。」

【解答】正解は、光明子こうみょうしです。光明子は、藤原不比等ふじわらのふひとの娘でした。

【問題2】以下の文章の正誤を答えよ。

「藤原不比等の娘である光明子は、藤原広嗣の乱の後、皇族以外で初めて皇后になった。」

【解答】答えは、誤りです。「藤原広嗣の乱の後」という部分が間違っています。

光明子は皇族以外で初めての皇后になりましたが、それは729年の長屋王の変の直後のことです。

藤原広嗣の乱は740年に起こった反乱であり、光明子が皇后になった後の出来事ですね。

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