この記事ではヤマト政権の成立と古墳時代を超わかりやすく解説していきます。
ヤマト政権の成立と古墳時代

まずは年表を確認しておきましょう。
ヤマト政権の成立と古墳時代
水稲耕作の本格化、金属器の使用、弥生土器、邪馬台国
前方後円墳の発生
前方後円墳中心
円墳・横穴墓が中心
592年~710年を飛鳥時代という
この記事では4世紀前後のヤマト政権の成立~古墳時代の前期・中期・後期を扱っていきます。
ヤマト政権の成立
謎の4世紀
「~3世紀中頃」までの弥生時代には『漢書』地理志・『後漢書』東夷伝・『魏志』倭人伝といった文字史料が比較的豊富にありました。
しかし4世紀にはパタリと文字史料が消えてしまうわけです。そのため4世紀は「謎の世紀」と言われています。
前方後円墳の発生とヤマト政権の成立
では、なぜ4世紀前後にヤマト政権が成立したことが分かるのかというと、前方後円墳と呼ばれる巨大な古墳の発生と分布から推測できるわけです。
3世紀中頃~後半に造られたと考えられている最も古い古墳の1つが奈良県の纒向遺跡にある箸墓古墳です。箸墓古墳は最大規模の前方後円墳の1つで、卑弥呼の墓とする説や初期ヤマト政権の大王の墓とする説もあります。
いずれにせよ、箸墓古墳のような前方後円墳が少なくとも3世紀末の大和(奈良県)に造られたことは確かで、これ以降、近畿地方・大和(奈良)を中心に前方後円墳が広範囲に広がっていきます。このことがヤマト政権の成立を示しているのです。

なんで前方後円墳からヤマト政権の成立がわかるにゃ?



日本各地にある前方後円墳の年代を測定すると、3世紀中頃~後半に大和の地(奈良県)に現れた前方後円墳と同じような形状をした古墳が4世紀半ば頃には関東~九州北部に広がっていくのよ。
こうした巨大な前方後円墳の広がりは奈良県で成立したヤマト政権が勢力を拡大していった証拠だと考えられているわ。
そして5世紀後半にはヤマト政権の権力が東北~九州にまで及んだことが分かっています。
古墳時代・前期


古墳時代の前期は4世紀頃で前方後円墳が中心です。数自体は円墳や方墳が多いのですが、大規模な古墳はいずれも前方後円墳です。
前方後円墳の最大の特徴は竪穴式石室です。竪穴式石室は権力者1人を埋葬するためだけに作られたお墓であることを意味します。
図解すると下図のようになります。


竪穴式石室はタテ方向に掘った穴に石の部屋を作り、そこに権力者の棺を納めて、上からフタをしていくという埋葬方式です。



なんで前方後円墳には権力者1人だけを埋葬したにゃ?



巨大な前方後円墳は偉い人の権威を示すためのものなの。
だから1つの古墳には1人の権力者を埋葬できれば良かったのよ。
前期の前方後円墳の特色
古墳時代・前期の前方後円墳には三角縁神獣鏡などの副葬品が見られることから呪術的・宗教的性格が強いと考えられます。



三角縁神獣鏡って何にゃ?



神様と霊獣の文様が刻まれた鏡のことよ!
古墳時代・中期


(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスから引用)
陵古墳時代・中期は5世紀頃で前期に引き続き主役は前方後円墳です。中期の前方後円墳にもやはり竪穴式石室が見られます。
前期との大きな違いは副葬品です。古墳時代・前期には三角縁神獣鏡など呪術的・宗教的な性格が見られましたが、古墳時代・後期になると副葬品には武具や馬具の割合が多くなり、武人的性格が強くなります。
また古墳時代中期になると大規模古墳が出現します。中期に登場した日本最大の前方後円墳が大阪府の大仙陵古墳です。また中期には第2位の規模を誇る前方後円墳である大阪府の誉田御廟山古墳も出現します。
第4位の規模を持つ前方後円墳である岡山県の造山古墳もおさえておきたいですね。
これらの古墳の上には円筒埴輪が置かれました。
これらは5世紀のヤマト政権の大王の墓だと考えられます。
古墳時代・後期


(Wikipediaより引用)
古墳時代の前期・中期は「前方後円墳」が中心でしたが、古墳時代後期(6世紀頃)になると前方後円墳に代わって小型の円墳や横穴墓が中心になります。
地方豪族だけではなく、有力農民も古墳を作るようになります。また後期の多くの古墳では、横穴式石室が見られるようになります。これは追葬が可能なタイプの埋葬方法です。



「追葬」って何にゃ?



追葬とは新たに亡くなった家族などを同じお墓に追加で埋葬することよ!
横穴式石室を図解すると下図のようになります。


権力者1人を埋葬する竪穴式石室に対して上図の横穴式石室は家族的な性格を持っています。つまり古墳時代・後期には追葬が可能な横穴式石室が広がったわけですね。
ヤマト政権成立期の朝鮮半島情勢


さて、ヤマト政権の成立は4世紀前後ということでしたが、4世紀の中頃になると馬韓という地域が統一されて百済になります。同じ頃、辰韓という地域が統一されて、新羅が成立します。
加羅(加耶)と呼ばれる上図の南端の地域は統一されず小国がひしめきあっていました。ヤマト政権はこの加羅に任那と呼ばれる拠点を置き、朝鮮半島の鉄資源・技術・人材を取り入れていました。
また、こうした利権を守るために、ヤマト政権は朝鮮半島に軍隊を派遣していました。その様子が書かれた史料が高句麗好太王碑文です。
南朝への朝貢


また、5世紀から約1世紀の間、ヤマト政権は中国の南朝に朝貢をしていました。倭の五王(讃・珍・済・興・武)が次々に南朝に朝貢した様子が『宋書』倭国伝に記されています。朝鮮半島での立場を有利にしヤマト政権を発展させることがその目的でした。


古墳時代の生活
古墳時代の土器
古墳時代の前期~中期には弥生土器に似た性質を持つ赤褐色の土師器が使用されました。5世紀に入ると土師器に加えて、高温で焼かれ硬質・灰色の須恵器も用いられるようになります。この須恵器は朝鮮半島から伝わったものです。
古墳時代の儀式
また、古墳時代には、農耕に関するお祭り(祭祀)も執り行われるようになります。春には秋の収穫を祈って祈年祭が、秋には収穫を感謝して新嘗祭が行われていました。
さらに呪術的風習として焼いた鹿の骨の割れ方で吉凶を占う太占の法や、熱湯に手を入れて手がただれるかどうかで裁判の真偽を判断する盟神探湯も行われました。


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