『後漢書』東夷伝を簡単に分かりやすく解説!(日本史史料と現代語訳)

『後漢書』東夷伝

後漢書ごかんじょ東夷伝とういでんの内容を超わかりやすく解説していきます。日本史の定期テスト・大学受験・歴史能力検定に役立つ内容になっています。

まず『後漢書ごかんじょ』とは、中国の後漢ごかん(西暦25年~220年)の歴史について書かれた史料です。

後漢の時代の内容ですが、さらに後の時代のそう范曄はんようという人物が編纂し、5世紀に成立した歴史書です。

中国の歴史の中で「そう」という名の大きな国家は3回成立していますが、今回は中国南北朝時代の南朝の宋(西暦420年~479年)です。

『後漢書』は120巻にもなる歴史書ですが、その中の1つに東夷伝という巻があり、当時の日本の様子が少しだけ書かれていたため、後漢書ごかんじょ東夷伝とういでんとして特別に日本の教科書に出てきます。

『後漢書』東夷伝には、1~2世紀倭国わこくの状況が書かれています。

1~2世紀というと弥生時代中期~後期の日本にあたりますね。

ここからは、『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を確認していきましょう。

目次

『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳

まず最初に『後漢書』東夷伝本文現代語訳を示しますが、ここではさらっと流してください。

『後漢書』東夷伝の倭国に関する記述

建武中元二年けんむちゅうげんにねん奴国なこくみつぎほうじて朝賀ちょうがす。使人しじんみずか大夫だいふしょうす。倭国わこく極南海きょくなんかいなり。光武こうぶたまふに印綬いんじゅもってす。安帝あんてい永初元年えいしょがんねん国王こくおう帥升すいしょう生口せいこう百六十人ひゃくろくじゅうにんけんじ、請見せいけんねがふ。桓霊かんれいあいだ倭国わこくおおいにみだれ、こもごもあい攻伐こうばつして歴年れきねんあるじなし

引用:『後漢書』東夷伝

【現代語訳】西暦57年、奴国王なこくおうみつぎ物を持って挨拶にきた。その使者は自分の身分を大夫だいふと称した。この奴国なこくの南の果てにある。光武帝こうぶてい奴国なこくひも付きの印を与えた。西暦107年、倭国王わこくおう帥升すいしょうは、奴隷160人を献上し、皇帝にお目にかかりたいと願った。桓帝かんてい霊帝れいていの時代、倭国わこくでは平和が乱れ互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する者がいなかった。

ここからは、『後漢書』東夷伝の本文を1つ1つ丁寧に解説していきます!

ポイント①西暦57年

まず冒頭の

建武中元二年けんむちゅうげんにねん

ですが、これは西暦57年のことです。弥生時代中期ですね。

語呂合わせ

カン57年」と覚えましょう!

日本史の入試問題で『後漢書』東夷伝の内容かどうかを判別するポイントは、この「建武中元二年けんむちゅうげんにねん」に着目することです。

建武中元二年けんむちゅうげんにねん」ときたら「あ!『後漢書』東夷伝だ!」と思うようにしましょう。

ポイント②奴国王の朝貢と印綬

続いて

奴国なこくみつぎほうじて朝賀ちょうがす。

について検討していきましょう。

」とは日本のことですね。西暦57年なので弥生時代中期の日本です。

この頃の倭(日本)は統一されておらず、多くの小国がひしめき合っていました。小国が分立して争い(戦争)が絶えない時代だったのです。

そうした日本の小国の1つが奴国なこくです。奴国なこくは福岡県の博多あたりにあった国と考えられています。

その奴国なこくの王がお土産つきで使者を中国の後漢ごかんに派遣したわけですね。このように貢ぎ物を持って中国に挨拶に行くことを朝貢ちょうこうといいます。

次に

使人しじんみずか大夫だいふしょうす。

とあるため、この奴国なこくの使者は大夫だいふという身分だったらしいことが分かります。

さらに

光武こうぶたまふに印綬いんじゅもってす。

という記述から、後漢光武帝こうぶていが奴国王に印綬いんじゅ(紐つきのハンコ)をくれたようです。

朝貢して印綬をもらうメリットは、倭(日本)にたくさんの小国がある中で奴国が中国公認の国として認められて、自分の支配権をより確かなものにできるという点にあります。

ちなみに、江戸時代に福岡県志賀島しかのしまで、偶然にも金印きんいんが発見されました。この金印こそが光武帝が奴国王に送った印綬ではないかと考えられています。

奴国は福岡県の博多付近にあった国ですから、この金印が『後漢書』東夷伝に記述のある印綬の可能性は非常に高いですよね。

で、この金印には「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」という文字が彫られていました。「倭」ではなく「」ですからね!金印の方にはニンベンはついていません!!!

ポイント③奴国王「帥升」の貢ぎ物

続いて

安帝あんてい永初元年えいしょがんねん国王こくおう帥升すいしょう生口せいこう百六十人ひゃくろくじゅうにんけんじ、請見せいけんねがふ。

とあります。「安帝あんてい永初元年えいしょがんねん」とは西暦107年のことです。先程の記述が西暦57年のことですから一気に50年も経過しています。

次に「国王こくおう帥升すいしょう」とあるので、倭の国王の一人に帥升すいしょうという人物がいたらしい。

そして帥升たちが「生口せいこう百六十人ひゃくろくじゅうにんけん」とあります。生口せいこうとは奴隷のことなので、奴隷(生きた人間)を160人、中国に献上したんですね。

お土産をもって挨拶に行くこと朝貢ちょうこうというのでした。従って、朝貢によって中国に認めてもらうために生口せいこう(奴隷)160人を贈り物にしたのです。

みちくさ

当時は、奴隷が贈り物になる時代だったことが分かりますね。。。

ポイント④倭国大乱

桓霊かんれいあいだ倭国わこくおおいにみだれ、こもごもあい攻伐こうばつして歴年れきねんあるじなし。

この部分の記述は、「桓霊かんれいあいだ」つまり2世紀後半(弥生時代後期)の日本では倭国大乱わこくたいらんと呼ばれる激しい戦争が起きていたことを意味します。

こもごもあい攻伐こうばつして歴年れきねんあるじなし」とは、「国中を巻き込むひどい戦争で諸国を統一する人が長らく現れなかった」ということですね。

環濠集落と高地性集落

実際、弥生時代には集落自体が戦争を前提に作られていました。

倭国大乱とセットで周囲に堀をめぐらせた環濠集落かんごうしゅうらくと、いざ敵が攻めてきたときに高台に逃げられるようになっていた高地性集落こうちせいしゅうらくをおさえておきましょう。

ついでに、遺跡もセットで覚えます。環濠集落の代表的な遺跡は佐賀県吉野ヶ里よしのがり遺跡です。また高地性集落といえば香川県紫雲出山しうでやま遺跡が代表的です!

ここまでで、高校日本史の範囲の後漢書東夷伝の解説は終わりです。

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『後漢書』東夷伝に関する一問一答!

一問一答で重要ポイントを暗記しよう!

ここからの13問の一問一答では、記事中で登場する重要な日本史用語を「暗記/確認」できるようになっています。ぜひ活用してください。

【問題1】「建武中元二年けんむちゅうげんにねんの(①)、みつぎほうじて朝賀ちょうがす。使人しじんみずから(②)としょうす。
(問1-1)この資料の出典は何か?[北海道大・改題]
(問1ー2)空欄①に入る漢字2字の語句は何か?
(問1ー3)空欄②に入る漢字2字の語句は何か?
(問1ー4)この史料の「みつぎほうじて朝賀ちょうが」とは「貢ぎ物を持って挨拶に行くこと」を意味するが、このような行為を漢字2字で何というか?

【解答】

(問1-1)正解は『後漢書』東夷伝です。後漢の歴史について書かれた『後漢書』の中の1つに東夷伝という巻があり、このように呼ばれています。

(問1-2)正解は奴国なこくです。弥生時代の日本にあった小国の1つで、現在の福岡県・博多付近にあったと考えられています。57年に奴国王が後漢に使者を派遣して朝貢を行ったんですね。

(問1-3)正解は大夫だいふです。奴国王の使者が自ら大夫と称したと書かれています。

(問1-4)正解は朝貢ちょうこうです。中国公認のお墨付きをもらうことで、日本国内における支配権を確かなものにするための外交活動ですね。

【問題2】『後漢書』東夷伝に記述のある「建武中元二年けんむちゅうげんにねん」とは西暦何年か?[中央大・改題]

【解答】正解は西暦57年です。「カン57年」と覚えましょう。
西暦57年は弥生時代中期です。つまり『後漢書』東夷伝は弥生時代の中期~後期、1世紀~2世紀の日本の様子を物語る史料と言えますね。
ちなみに西暦57年は日本史に出てくる一番最初の年号です。

【問題3】『後漢書』東夷伝の編者は宋の(  )である。

【解答】正解は范曄はんようです。范曄は滅多に出題されませんが覚えておくと差がつく日本史用語ですね。

【問題4】中国古代の歴史書『後漢書』東夷伝によれば、西暦57年に倭の奴国が使者を派遣して(  )から印綬を与えられたという。[立命館大・改題]

【解答】正解は後漢の光武帝こうぶていです。光武帝は後漢王朝の初代皇帝で、世界史では非常によく出題される人物です。日本史でもごくたまに出題される用語ですね。

【問題5】「安帝の永初元年」は西暦(  )年である。[早稲田大]

【解答】正解は西暦107です。
建武中元二年けんむちゅうげんにねん」が57年で、そのちょうど50年後が安帝あんてい永初元年えいしょがんねん107年)と覚えれば暗記しやすいですね。「建武中元二年=57年」は頻出ですが、「安帝の永初元年=107年」の出題はレアです。いわゆる差がつく問題ですね。

【問題6】107年には、倭国王(①)等が安帝に(②)[奴隷]を献じた記録もある。[早稲田大・改題]

【解答】「107年には」、「安帝に」という文言から「安帝あんてい永初元年えいしょがんねん国王こくおう帥升すいしょう生口せいこう百六十人ひゃくろくじゅうにんけんじ、請見せいけんねがふ。」という『後漢書』東夷伝の知識を問う史料問題だと分かります。
①には帥升すいしょう(漢字注意!)が入ります。②は生口せいこうです。倭の国王の一人である帥升が生口(=奴隷160人を中国に献上したわけです。

【問題7】紀元57年に光武帝から下賜かしされたと考えられる金印が福岡市の(①)から出土しているが、その印面には(②)と彫られていた。[西南学院大・改題]

【解答】後漢光武帝57年奴国に与えた印綬いんじゅと考えられる金印が偶然に見つかったのは福岡県の①志賀島しかのしまです。
この金印には②漢委奴国王かんのわのなのこくおうという文字が彫られていました。「倭」ではなく「」ですよ!

【問題8】『後漢書』東夷伝によれば「桓霊かんれいあいだ倭国わこくおおいにみだれ、こもごもあい攻伐こうばつして歴年れきねんあるじなし」とあるが、2世紀後半の倭国(日本)内で行われた激しい争いをなんと呼ぶか?

【解答】正解は倭国大乱わこくたいらんです。

【問題9】集落の周りにみぞをめぐらす(  )は、地域集団間の争いに備えた防衛機能をもつ集落であった。[同志社大]

【解答】正解は環濠集落かんごうしゅうらくです。敵が攻めてきたときのため周囲に堀をめぐらせた集落のことですね。

【問題10】環濠集落の代表例として、佐賀県の(  )遺跡がある。[同志社大・改題]

【解答】正解は佐賀県吉野ケ里よしのがり遺跡です。

【問題11】環濠集落や(  )集落が示すように、弥生時代には集落自体が防御機能・軍事機能をもっていた。[京都大]

【解答】正解は高地性こうちせい集落です。高台に集落を作り、敵が攻めてきたときに逃げ込めるように工夫された逃げ城的性格を持った集落のことですね。

【問題12】高地性集落としては香川県の(  )遺跡がある。[慶応義塾大]

【解答】正解は香川県紫雲出山しうでやま遺跡です。

【問題13】(①)県の吉野ケ里遺跡のような環濠集落や、(②)県の紫雲出山遺跡のような高地性集落の出現は当時の緊張した状況を物語っている。[立命館大・改題]

【解答】正解は①佐賀吉野ケ里よしのがり遺跡(環濠集落かんごうしゅうらくの遺跡)、②香川紫雲出山しうでやま遺跡(高地性集落の遺跡)です。

お疲れ様でした!一問一答集はこれで終わりです。

続いて、付録①には「注意を要する漢字の練習問題」を掲載しました。デカ文字で要注意漢字を表記したので、書き取りの練習をしやすいのが特徴です。

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付録①:要注意漢字の練習問題(デカ文字で便利!)

要注意漢字を含む日本史用語をまとめました。実際にメモ帳などに書き写しながら練習すると効率的に日本史用語をインプットできます。

【問題】次のひらがなを漢字になおすと?

1.はんよう(『後漢書』東夷伝を編集した宋の人物)

范曄

2.ちょうこう(お土産をもって挨拶に行くこと)

朝貢

3.いんじゅ(光武帝が奴国王に与えた金印)

印綬

4.かんのわのなのこくおう(福岡県・志賀島で発見された金印に刻まれていた文字)

漢委奴国王

5.すいしょう(生口160人を献上した倭の国王の1人)

帥升

6.かんごうしゅうらく(防衛のため堀をめぐらせた集落)

環濠集落

7.しうでやまいせき(香川県にある高地性集落の代表的遺跡)

紫雲出山遺跡

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付録②音読と黙読で覚える『後漢書』東夷伝

日本史の史料問題に強くなるコツは「音読/黙読」を何度も繰り返すことなので、付録②には『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を再度、掲載しました。何度も読んで史料を頭にしみ込ませましょう(丸暗記は不要です)。

1回1分として30分あれば30回は「音読/黙読」できます。30回も読み込めば『後漢書』東夷伝を完全習得できるはずです!

『後漢書』東夷伝の倭国に関する記述

建武中元二年けんむちゅうげんにねん奴国なこくみつぎほうじて朝賀ちょうがす。使人しじんみずか大夫だいふしょうす。倭国わこく極南海きょくなんかいなり。光武こうぶたまふに印綬いんじゅもってす。安帝あんてい永初元年えいしょがんねん国王こくおう帥升すいしょう生口せいこう百六十人ひゃくろくじゅうにんけんじ、請見せいけんねがふ。桓霊かんれいあいだ倭国わこくおおいにみだれ、こもごもあい攻伐こうばつして歴年れきねんあるじなし

引用:『後漢書』東夷伝

【現代語訳】西暦57年、奴国王なこくおうみつぎ物を持って挨拶にきた。その使者は自分の身分を大夫だいふと称した。この奴国なこくの南の果てにある。光武帝こうぶてい奴国なこくひも付きの印を与えた。西暦107年、倭国王わこくおう帥升すいしょうは、奴隷160人を献上し、皇帝にお目にかかりたいと願った。桓帝かんてい霊帝れいていの時代、倭国わこくでは平和が乱れ互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する者がいなかった。

最後までお読みいただきありがとうございました!

この記事で、日本史の知識を高めて頂けたらとても嬉しいです!

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