『後漢書』東夷伝の内容を超わかりやすく解説していきます。日本史の定期テスト・大学受験・歴史能力検定に役立つ内容になっています。
まず『後漢書』とは、中国の後漢(西暦25年~220年)の歴史について書かれた史料です。
後漢の時代の内容ですが、さらに後の時代の宋の范曄という人物が編纂し、5世紀に成立した歴史書です。
『後漢書』は120巻にもなる歴史書ですが、その中の1つに東夷伝という巻があり、当時の日本の様子が少しだけ書かれていたため、『後漢書』東夷伝として特別に日本の教科書に出てきます。
『後漢書』東夷伝には、1~2世紀の倭国の状況が書かれています。
1~2世紀というと弥生時代中期~後期の日本にあたりますね。
ここからは、『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を確認していきましょう。
『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳
まず最初に『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を示しますが、ここではさらっと流してください。
建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。
引用:『後漢書』東夷伝
【現代語訳】西暦57年、倭の奴国王が貢ぎ物を持って挨拶にきた。その使者は自分の身分を大夫と称した。この奴国は倭の南の果てにある。光武帝は奴国に紐付きの印を与えた。西暦107年、倭国王の帥升等は、奴隷160人を献上し、皇帝にお目にかかりたいと願った。桓帝・霊帝の時代、倭国では平和が乱れ互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する者がいなかった。
ここからは、『後漢書』東夷伝の本文を1つ1つ丁寧に解説していきます!
ポイント①西暦57年
まず冒頭の
ですが、これは西暦57年のことです。弥生時代中期ですね。
「ゴカンナラ57年」と覚えましょう!
日本史の入試問題で『後漢書』東夷伝の内容かどうかを判別するポイントは、この「建武中元二年」に着目することです。
「建武中元二年」ときたら「あ!『後漢書』東夷伝だ!」と思うようにしましょう。
ポイント②奴国王の朝貢と印綬
続いて
について検討していきましょう。
「倭」とは日本のことですね。西暦57年なので弥生時代中期の日本です。
この頃の倭(日本)は統一されておらず、多くの小国がひしめき合っていました。小国が分立して争い(戦争)が絶えない時代だったのです。
そうした日本の小国の1つが奴国です。奴国は福岡県の博多あたりにあった国と考えられています。
その奴国の王がお土産つきで使者を中国の後漢に派遣したわけですね。このように貢ぎ物を持って中国に挨拶に行くことを朝貢といいます。
次に
とあるため、この奴国の使者は大夫という身分だったらしいことが分かります。
さらに
という記述から、後漢の光武帝が奴国王に印綬(紐つきのハンコ)をくれたようです。
朝貢して印綬をもらうメリットは、倭(日本)にたくさんの小国がある中で奴国が中国公認の国として認められて、自分の支配権をより確かなものにできるという点にあります。
ちなみに、江戸時代に福岡県の志賀島で、偶然にも金印が発見されました。この金印こそが光武帝が奴国王に送った印綬ではないかと考えられています。
奴国は福岡県の博多付近にあった国ですから、この金印が『後漢書』東夷伝に記述のある印綬の可能性は非常に高いですよね。
で、この金印には「漢委奴国王」という文字が彫られていました。「倭」ではなく「委」ですからね!金印の方にはニンベンはついていません!!!
ポイント③奴国王「帥升」の貢ぎ物
続いて
とあります。「安帝の永初元年」とは西暦107年のことです。先程の記述が西暦57年のことですから一気に50年も経過しています。
次に「倭の国王帥升等」とあるので、倭の国王の一人に帥升という人物がいたらしい。
そして帥升たちが「生口百六十人を献じ」とあります。生口とは奴隷のことなので、奴隷(生きた人間)を160人、中国に献上したんですね。
お土産をもって挨拶に行くことを朝貢というのでした。従って、朝貢によって中国に認めてもらうために生口(奴隷)160人を贈り物にしたのです。
当時は、奴隷が贈り物になる時代だったことが分かりますね。。。
ポイント④倭国大乱
この部分の記述は、「桓霊の間」つまり2世紀後半(弥生時代後期)の日本では倭国大乱と呼ばれる激しい戦争が起きていたことを意味します。
「更相攻伐して歴年主なし」とは、「国中を巻き込むひどい戦争で諸国を統一する人が長らく現れなかった」ということですね。
環濠集落と高地性集落
実際、弥生時代には集落自体が戦争を前提に作られていました。
倭国大乱とセットで周囲に堀をめぐらせた環濠集落と、いざ敵が攻めてきたときに高台に逃げられるようになっていた高地性集落をおさえておきましょう。
ついでに、遺跡もセットで覚えます。環濠集落の代表的な遺跡は佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。また高地性集落といえば香川県の紫雲出山遺跡が代表的です!
ここまでで、高校日本史の範囲の後漢書東夷伝の解説は終わりです。
『後漢書』東夷伝に関する一問一答!
ここからの13問の一問一答では、記事中で登場する重要な日本史用語を「暗記/確認」できるようになっています。ぜひ活用してください。
【問題1】「建武中元二年、倭の(①)、貢を奉じて朝賀す。使人自ら(②)と称す。」
(問1-1)この資料の出典は何か?[北海道大・改題]
(問1ー2)空欄①に入る漢字2字の語句は何か?
(問1ー3)空欄②に入る漢字2字の語句は何か?
(問1ー4)この史料の「貢を奉じて朝賀す」とは「貢ぎ物を持って挨拶に行くこと」を意味するが、このような行為を漢字2字で何というか?
【解答】
(問1-1)正解は『後漢書』東夷伝です。後漢の歴史について書かれた『後漢書』の中の1つに東夷伝という巻があり、このように呼ばれています。
(問1-2)正解は奴国です。弥生時代の日本にあった小国の1つで、現在の福岡県・博多付近にあったと考えられています。57年に奴国王が後漢に使者を派遣して朝貢を行ったんですね。
(問1-3)正解は大夫です。奴国王の使者が自ら大夫と称したと書かれています。
(問1-4)正解は朝貢です。中国公認のお墨付きをもらうことで、日本国内における支配権を確かなものにするための外交活動ですね。
【問題2】『後漢書』東夷伝に記述のある「建武中元二年」とは西暦何年か?[中央大・改題]
【解答】正解は西暦57年です。「ゴカンナラ57年」と覚えましょう。
西暦57年は弥生時代中期です。つまり『後漢書』東夷伝は弥生時代の中期~後期、1世紀~2世紀の日本の様子を物語る史料と言えますね。
ちなみに西暦57年は日本史に出てくる一番最初の年号です。
【問題3】『後漢書』東夷伝の編者は宋の( )である。
【解答】正解は宋の范曄です。范曄は滅多に出題されませんが覚えておくと差がつく日本史用語ですね。
【問題4】中国古代の歴史書『後漢書』東夷伝によれば、西暦57年に倭の奴国が使者を派遣して( )から印綬を与えられたという。[立命館大・改題]
【解答】正解は後漢の光武帝です。光武帝は後漢王朝の初代皇帝で、世界史では非常によく出題される人物です。日本史でもごくたまに出題される用語ですね。
【問題5】「安帝の永初元年」は西暦( )年である。[早稲田大]
【解答】正解は西暦107年です。
「建武中元二年」が57年で、そのちょうど50年後が安帝の永初元年(107年)と覚えれば暗記しやすいですね。「建武中元二年=57年」は頻出ですが、「安帝の永初元年=107年」の出題はレアです。いわゆる差がつく問題ですね。
【問題6】107年には、倭国王(①)等が安帝に(②)[奴隷]を献じた記録もある。[早稲田大・改題]
【解答】「107年には」、「安帝に」という文言から「安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。」という『後漢書』東夷伝の知識を問う史料問題だと分かります。
①には帥升(漢字注意!)が入ります。②は生口です。倭の国王の一人である帥升が生口(=奴隷)160人を中国に献上したわけです。
【問題7】紀元57年に光武帝から下賜されたと考えられる金印が福岡市の(①)から出土しているが、その印面には(②)と彫られていた。[西南学院大・改題]
【解答】後漢の光武帝が57年に奴国に与えた印綬と考えられる金印が偶然に見つかったのは福岡県の①志賀島です。
この金印には②漢委奴国王という文字が彫られていました。「倭」ではなく「委」ですよ!
【問題8】『後漢書』東夷伝によれば「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし」とあるが、2世紀後半の倭国(日本)内で行われた激しい争いをなんと呼ぶか?
【解答】正解は倭国大乱です。
【問題9】集落の周りに溝をめぐらす( )は、地域集団間の争いに備えた防衛機能をもつ集落であった。[同志社大]
【解答】正解は環濠集落です。敵が攻めてきたときのため周囲に堀をめぐらせた集落のことですね。
【問題10】環濠集落の代表例として、佐賀県の( )遺跡がある。[同志社大・改題]
【解答】正解は佐賀県の吉野ケ里遺跡です。
【問題11】環濠集落や( )集落が示すように、弥生時代には集落自体が防御機能・軍事機能をもっていた。[京都大]
【解答】正解は高地性集落です。高台に集落を作り、敵が攻めてきたときに逃げ込めるように工夫された逃げ城的性格を持った集落のことですね。
【問題12】高地性集落としては香川県の( )遺跡がある。[慶応義塾大]
【解答】正解は香川県の紫雲出山遺跡です。
【問題13】(①)県の吉野ケ里遺跡のような環濠集落や、(②)県の紫雲出山遺跡のような高地性集落の出現は当時の緊張した状況を物語っている。[立命館大・改題]
【解答】正解は①佐賀県・吉野ケ里遺跡(環濠集落の遺跡)、②香川県・紫雲出山遺跡(高地性集落の遺跡)です。
お疲れ様でした!一問一答集はこれで終わりです。
続いて、付録①には「注意を要する漢字の練習問題」を掲載しました。デカ文字で要注意漢字を表記したので、書き取りの練習をしやすいのが特徴です。
付録①:要注意漢字の練習問題(デカ文字で便利!)
要注意漢字を含む日本史用語をまとめました。実際にメモ帳などに書き写しながら練習すると効率的に日本史用語をインプットできます。
【問題】次のひらがなを漢字になおすと?
1.はんよう(『後漢書』東夷伝を編集した宋の人物)
范曄
2.ちょうこう(お土産をもって挨拶に行くこと)
朝貢
3.いんじゅ(光武帝が奴国王に与えた金印)
印綬
4.かんのわのなのこくおう(福岡県・志賀島で発見された金印に刻まれていた文字)
漢委奴国王
5.すいしょう(生口160人を献上した倭の国王の1人)
帥升
6.かんごうしゅうらく(防衛のため堀をめぐらせた集落)
環濠集落
7.しうでやまいせき(香川県にある高地性集落の代表的遺跡)
紫雲出山遺跡
付録②音読と黙読で覚える『後漢書』東夷伝
日本史の史料問題に強くなるコツは「音読/黙読」を何度も繰り返すことなので、付録②には『後漢書』東夷伝の本文と現代語訳を再度、掲載しました。何度も読んで史料を頭にしみ込ませましょう(丸暗記は不要です)。
1回1分として30分あれば30回は「音読/黙読」できます。30回も読み込めば『後漢書』東夷伝を完全習得できるはずです!
建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。
引用:『後漢書』東夷伝
【現代語訳】西暦57年、倭の奴国王が貢ぎ物を持って挨拶にきた。その使者は自分の身分を大夫と称した。この奴国は倭の南の果てにある。光武帝は奴国に紐付きの印を与えた。西暦107年、倭国王の帥升等は、奴隷160人を献上し、皇帝にお目にかかりたいと願った。桓帝・霊帝の時代、倭国では平和が乱れ互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する者がいなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
この記事で、日本史の知識を高めて頂けたらとても嬉しいです!
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