この記事は、大学受験や歴史能力検定に対応した、弥生時代の完全まとめです。
もちろん教養として日本史を学びなおしたい方にも、最適な内容になっています。
ぜひ当記事を活用して弥生時代を「理解・暗記」していただければ幸いです!
弥生時代はいつからいつまで?
弥生時代とは、紀元前4世紀頃~紀元後3世紀中頃までの時代のことです。約1万年続いた縄文時代と比べると極めて短い期間と言えますね。
時代の順番を年表にすると次のようになります。
弥生文化はどうやって広がったのか?
まず紀元前4世紀頃に中国から水稲耕作・金属器(青銅器、鉄)・弥生土器といった文化が九州に伝わります。
そのため、縄文時代・晩期の九州ではすでに水稲耕作(米作り)が行われていたことがわかっています。その証拠が佐賀県の菜畑遺跡と福岡県の板付遺跡で、どちらも縄文時代の田んぼの遺跡です。
紀元前4世紀頃に九州に伝わった水稲耕作や金属器(青銅器、鉄器)といった文化は「九州→西日本→東日本」とどんどん伝わっていき、最終的には北海道と沖縄を除く日本列島の大部分に広がることになります。
ちゃんと青森県にまで水稲耕作が広まったことは、弥生時代前期の水田跡である青森県弘前市の砂沢遺跡から分かっています。これは東日本最古の水田跡です。
こうして水稲耕作が本格化した時代が弥生時代です。つまり採集中心の獲得経済から農耕中心の生産経済に移行したわけですね。
(※水稲耕作広がりを示す遺跡については、コチラの記事でさらに詳しく解説しています。)
弥生文化は北海道と沖縄には伝わらなかった!
ちなみに、弥生時代になっても北海道と沖縄(南西諸島)は農耕ではなく狩猟メインの獲得経済です。そのため、北海道の文化を続縄文文化といいます。沖縄(南西諸島)の文化は貝塚文化と呼ばれています。
この2つの地域は、ビックウェーブに取り残されてしまったわけですね。
水稲耕作の発達!湿田から乾田へ
弥生前期は湿田が中心
弥生時代は前期・中期・後期の3つに分類されます。そして弥生時代前期の水田は日当たりの悪い低湿地に作った湿田でした。
水稲耕作とは要は田んぼのことですから、稲を育てるのに水がたくさん必要ですよね。でも日当たりの良い場所まで水を引いてくるのはちょっと難しかったんです。
それはなぜか?-弥生前期には農具のほとんどは木製だったからです。
そこで、日当たりが悪くて、生産性が低い土地でも最初から水のある土地に稲を植えるしかないということで、低湿地の湿田で我慢したのです。
湿田に直播
また弥生前期の頃はモミをまくのも直播といって、湿田に直接モミを植えていました。
つまり、まだ田植えは始まっていなかったわけですね。
弥生時代の主な農具
ここで活躍したのが田下駄です。大きな下駄で田んぼに足が沈まないようにする道具ですね。
収穫は石包丁で穂首刈りが行われていました。
なお、収穫後の脱穀には木臼・竪杵が使われました。
湿田から乾田へ
弥生後期になると、鉄製農具が本格的に普及します。
そのおかげで、日当たりの良い場所まで水を引けるようになりました。「水を引く」ための設備を、難しい言葉で灌漑施設といいます。
こうした灌漑施設のおかげで条件の良い場所に作ることができるようになった田んぼを乾田といいます。乾田の方が日当たりが良く湿田よりも生産性が高いわけです。
乾田では直播に変わって田植えが行われるようになりました。また、初期の段階では収穫した稲を貯蔵穴にしまっていましたが、次第に保存性に優れた高床倉庫が使われるようになりました。
さらには、鉄製農具の普及により石包丁が消えていき、収穫には「鉄鎌」を用いるようになります。
(※乾田と湿田の違いは、コチラの記事でさらに詳しく解説しています。)
弥生時代の水田跡
弥生時代の水田の遺跡としては奈良県の唐古・鍵遺跡が有名です。変な名称なのは奈良県の唐古地区と鍵地区のちょうど境目にあった遺跡だからです。
さらに戦後に静岡県の登呂遺跡が発見されることで弥生文化の研究が本格化します。登呂遺跡からは高床倉庫と多数の木製農具が出土しています。
金属器とは何か!?
弥生時代といえば水稲耕作の本格化、金属器の使用、弥生土器ですが、金属器とは具体的には何でしょうか。
実は弥生時代の日本には青銅器と鉄器がほぼ同時に伝わったんです。なので「青銅器+鉄器」を金属器と総称しているのです。
で、青銅器というのは比較的やわらかいので農具や武器には不向きなわけです。そこで祭祀(お祭り)の道具として使われました。青銅器で作った銅鐸・銅矛・銅剣・銅戈などを青銅製祭器といいます。
こうした弥生時代の青銅製祭器の遺跡としては、島根県の荒神谷遺跡や同じ島根県の加茂岩倉遺跡が有名です。荒神谷遺跡からはなんと銅剣が358本見つかっています。また加茂岩倉遺跡からは銅鐸が39個も出土しています。
なお、鉄は農具や武器として使われました。
弥生土器と縄文土器の違い
縄文土器は低温で焼かれ黒褐色で厚手の土器で、網目模様が特徴でしたね。これに対して弥生土器は高温で焼かれ赤褐色で薄手の土器で、ほとんど文様がありません。
弥生土器の方がシンプルなデザインなんです。
また縄文土器は貯蔵や煮炊きだけに使われましたが弥生土器の用途はもっと広いんです。弥生土器の種類と用途として以下の4つはおさえておいてください。この4種類は定期試験や入試で頻出ですよ!
種類 | 用途 |
---|---|
甕 | 食料の煮炊き |
壺 | 食料の貯蔵 |
高杯 | 食料の盛り付け、足付き |
甑 | 米を蒸すための土器、底に穴が開いている |
ちなみに絵は下手ですが、一番試験に出やすい食物を盛るための高杯は下図のようなイメージです。
実際に出土した高坏の写真は、下のようになります。
要は、足付きのお皿ですね。これが高杯です。
(※縄文土器と弥生土器の違いは、コチラの記事でさらに詳しく解説しています。)
弥生時代の住居
弥生時代の住居は縄文時代とほぼ同じで、引き続き竪穴住居です。また生活関連では、弥生時代になってはじめて大陸から機織の知識が伝えられた点も重要です。糸をつむぐために使われた道具を紡錘車といいます。
生産経済と戦争
弥生時代に入って生産経済になると生活が豊かになり蓄えが生まれます。要は貯金ができるわけですね。財産と言ってもいい。
すると財産の奪い合いが起きます。つまり戦争が起きるようになるわけです。
こうした戦争から身を守るために防りを固めたような集落が2種類登場します。
1つは周囲に堀をめぐらせて敵の侵入を防ぐ環濠集落です。環濠集落の遺跡としては佐賀県の吉野ヶ里遺跡が超重要です。
またもう1つは、敵が攻めてきたときに高台に逃げられるように設計された高地性集落です。高地性集落の遺跡としては香川県の紫雲出山遺跡が非常に有名です。
地域によってだいぶ違う弥生時代のお墓
弥生時代のお墓にはかなりの地域差がありました。
例えば、九州北部だけで見られる朝鮮の影響を受けたお墓が支石墓です。
支石墓とは、下図のように支柱となる石の上に大きな平たい石をのせ、その下に埋葬している甕棺の場所を示すものです。
また下図の甕棺墓も九州北部だけに見られる特徴的なお墓です。
甕棺墓とは、上図のように大きな土の甕に死体を入れて埋葬する方法です。
そして弥生時代後期になると瀬戸内海沿岸部には墳丘墓が、近畿地方~東日本にかけては方形周溝墓が、山陰地方には四隅突出型墳丘墓が見られるようになります。
このように弥生時代のお墓の形状は地域によってバラバラだったのです。
(※弥生時代の墓制については、コチラの記事でさらに詳しく解説しています。)
『漢書』地理志と小国の分立
弥生時代からは、必ずしも考古学や発掘調査に頼らなくても中国の歴史書を研究すれば、そこに弥生時代の日本の様子が記されています。文字史料があるのですね。
日本史学習で最初に出会う文献史料が『漢書』地理志です。この中国の史書に、たった2行くらいですが、紀元前1世紀(弥生時代中期)の日本の様子が記されていますよ。
では早速、『漢書』地理志の内容を読み解いていきましょう!
夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
現代語訳朝鮮の楽浪郡のさらに南の海には倭人という人々が住んでいる。そこには100余りの小国があり、彼らは楽浪郡に定期的に貢ぎ物をもって挨拶に来る。
漢書地理志を書いたのは後漢の班固という人です。「漢」についての歴史書ですが、書かれたのは「後漢」の時代なので注意してくださいね。
ポイント①楽浪郡
「夫れ楽浪海中に」の「楽浪」とは漢の武帝が朝鮮半島に置いた植民地である楽浪郡のことです。そのため楽浪郡は中国の領土ですよ。場所は現在のピョンヤン付近です。
ポイント②小国の分立
続いて「分れて百余国と為る」とあります。弥生中期の頃の日本には、なんと100余りの小国があった。そしてこれらの小国同士は互いに争っていたものと考えられます。
ポイント③朝貢
続いて「歳時を以て来り献見す」は「定期的にお土産を持って挨拶にやってくる」という意味です。こうした行為を朝貢といいます。
100余りの小国の中には中国に認めてもらって自国の日本国内での立場を有利にするため「楽浪郡」を通じて中国に挨拶(朝貢)しに行っていた国もあったのですね。
これが「紀元前1世紀(弥生中期)頃の日本の様子」ということになります。
『後漢書』東夷伝と1世紀~2世紀の日本
弥生時代を知る手がかりは『漢書』地理志だけではありません。
『後漢書』東夷伝には1世紀~2世紀(弥生中期~後期)の日本の様子が記されています。
ちなみに、『後漢書』東夷伝は「後漢」の歴史書ですが、この本を書いたのは宋の范曄という人物です。
では早速、中身を確認していきましょう!
建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。
現代語訳西暦57年、倭の奴国王が貢ぎ物を持って挨拶にきた。その使者は自分の身分を大夫と称した。この奴国は倭の南の果てにある。光武帝は奴国に紐付きの印を与えた。西暦107年、倭国王の帥升等は、奴隷160人を献上し、皇帝にお目にかかりたいと願った。桓帝・霊帝の時代、倭国では平和が乱れ互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する者がいなかった。
ポイント①日本史に出てくる最初の年号「57年」
ついに西暦57年、1世紀です!
ちなみに「建武中元二年」が西暦57年ですよ!
ポイント②奴国の朝貢と印綬
「倭の奴国、貢を奉じて朝賀す」は日本の奴国という国が朝貢してきたという意味ですね。具体的な国名が分かるのもすごいですよね!
「朝貢」とはお土産を持って定期的に挨拶に行くこと!
続く「光武、賜ふに印綬を以てす」は、奴国が朝貢してきてエライので、後漢の光武帝がご褒美に奴国に金印(ハンコ)をくれたという意味です。
このとき光武帝が奴国に与えた金印は江戸時代に入ってから福岡県の志賀島で偶然に発見されています!
そしてその金印には「漢委奴国王」と刻んであった。「倭」じゃなくて「委」ですからね!ニンベンはつかないですよ!
ポイント③帥升の朝貢
続いて史料には「安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とあります。
「安帝の永初元年」とは西暦107年のことです。一気に半世紀経ちましたね!
「倭の国王帥升等」と人名が出てきます。どうも日本の小国の王の中に帥升という人物がいたらしいことが分かりますね。
さらに「生口百六十人を献じ、請見を願ふ」と続きます。「生口」とは「奴隷」のことです。
つまり帥升たちは、朝貢を成功させるために生きた人間160人をお土産に持ってきたということです。今から考えると、とんでもないですね。
ポイント④倭国大乱
続いて「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし」とは2世紀後半(弥生後期)の日本国内で非常に激しい大戦争が起こっていたという記録です。これを倭国大乱といいます。
『魏志』倭人伝が語る3世紀の日本
邪馬台国と卑弥呼
中国の歴史書『魏志』倭人伝によれば、この倭国大乱を平定して、強大な権力を持ったのが邪馬台国の女王、卑弥呼です。
この頃の中国は魏・呉・蜀の三国時代になっていましたが、邪馬台国はとくに魏と仲良くしていました。
(※『魏志』倭人伝のさらに詳しい解説はコチラの記事を確認してください)
卑弥呼は鬼道と呼ばれる呪術的な政治を得意としていたのですが、魏にせっせと使者を送って朝貢していたので、日本を味方につけたかった魏は、卑弥呼に「親魏倭王」という最上級のお墨付きを与えます。
卑弥呼の死後
卑弥呼は狗奴国との戦争が原因で死んでしまいます。次いで男の王様が即位しますが、やはり邪馬台国は男性ではうまく統治できないのか、失敗に終わってしまいます。
そこで卑弥呼の宗女である壹与という13歳の女の子を邪馬台国の王にしたところ国が安定したと言われています。
ちなみに壹与は266年に中国の晋に使者を送っています。
弥生時代の終わりと謎の4世紀
これで弥生時代の歴史は終わりです。
ここから先は、「謎の4世紀」と呼ばれる時代に突入します。
そして遅くとも4世紀の後半には、ヤマト政権が成立するのです。ただこのヤマト政権と邪馬台国とのつながりは、いまだ謎に包まれています。
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