この記事では、楽浪郡と帯方郡の違いを徹底的にわかりやすく解説します。
楽浪郡と帯方郡の違い
結論から言えば、紀元前1世紀には日本は楽浪郡を通じて中国に朝貢し、3世紀(弥生時代後期)になると帯方郡を通じて中国に朝貢するようになります。
紀元前1世紀には楽浪郡に使者を送っていた
楽浪郡は、紀元前108年に前漢の武帝が朝鮮半島に設置した植民地です。
楽浪郡は現在のピョンヤン付近にありました。
つまり、楽浪郡は朝鮮半島に位置していますが、中国の領土です。
『漢書』地理志によれば紀元前1世紀の日本は100余りの小国に分かれていて、それらの小国の中には楽浪郡に定期的にお土産を持って挨拶に行く国もありました。
こうした行為を朝貢といいます。
倭国の様々な小国が楽浪郡に使者を送っていたわけですね。
中国にお土産をもって挨拶に行く際は、朝鮮半島の楽浪郡に使者を送っていたんだね!
【参考記事】『漢書』地理志の内容を簡単にわかりやすく解説
後漢が楽浪郡の南に帯方郡を設置
時は流れ1世紀になると前漢が滅び、後漢が中国を統一します。
このとき後漢の公孫氏が楽浪郡のさらに南に設置した植民地が帯方郡です。
帯方郡は現在のソウル付近にあたります。
1世紀前半に、後漢が楽浪郡の南に作ったのが帯方郡ということだね!
3世紀前半には帯方郡が朝貢の窓口だった
220年に後漢が滅びると、中国は「魏・蜀・呉」の三国時代に突入します。
三国時代になると、帯方郡は「魏」の領土になります。
『魏志』倭人伝によれば、3世紀前半になると倭国の30の国々は魏に朝貢するようになります。
この30余りの国々の連合国が、卑弥呼率いる邪馬台国です。
邪馬台国は魏にお土産を持って挨拶に行く(朝貢する)際、帯方郡を通じて魏に使者を送っていました。
3世紀になると、倭国(邪馬台国)は楽浪郡ではなく帯方郡を通じて中国の魏に挨拶に行くようになるんだね!
【参考記事】魏志倭人伝の内容をわかりやすく解説
ここまでをまとめると、以下のようになります。
- 『漢書』地理志に書かれた時代(紀元前1世紀)には、日本は楽浪郡を通じて中国に朝貢した。
- 『魏志』倭人伝に書かれた時代(3世紀、弥生時代後期)になると、日本は帯方郡を通じて中国に朝貢した。
高句麗が楽浪郡を滅ぼし帯方郡を支配
楽浪郡は313年に高句麗に滅ぼされます。帯方郡も同じ313年に高句麗の支配下に入ります。
これが楽浪郡と帯方郡の違いです。
つまり、漢の時代には楽浪郡を通じて、中国に挨拶に行ってたってことだよね!
そうだね。
そして魏の時代には、帯方郡を通じて中国に朝貢していたということだね!
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