【水稲耕作の遺跡】縄文時代晩期~弥生時代の水田跡を解説!

水稲耕作の遺跡

この記事では、縄文時代晩期から始まり弥生時代に本格化する水稲耕作について、時代毎の遺跡とともに簡単に分かりやすく解説しています。

記事の最後には、記事中で登場した重要用語を効率的に暗記するのに役立つ一問一答を9題設置しているので、ぜひご活用ください。

目次

水稲耕作の始まりは縄文時代晩期

水稲耕作すいとうこうさく縄文時代晩期にはすでに始まっています。

水稲耕作の始まりは縄文時代晩期!

なぜ縄文時代晩期に水稲耕作が始まっていたのが分かるかというと、ちゃんと証拠が見つかっているからです。縄文晩期の水田跡が、福岡県板付遺跡いたづけいせき佐賀県菜畑遺跡なばたけいせきで発見されているのです。

また板付遺跡では敵から身を守るために周囲に堀をめぐらせた環濠集落かんごうしゅうらく跡も確認されています。

板付遺跡は縄文晩期~弥生初頭の遺跡なので、弥生時代初頭には敵との戦いを想定し防御・軍事的役割を持った環濠集落かんごうしゅうらくがすでに存在していたことが分かります。

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弥生時代と水稲耕作の本格化

稲作の開始は縄文時代、稲作の本格化は弥生時代

水稲耕作が本格化したのは、弥生時代です。

しかしその範囲は九州北部~東北地方までであり、弥生時代に入っても北海道沖縄を中心とする南西諸島には農耕文化は伝わりませんでした

弥生時代に入っても獲得経済だった北海道と沖縄

弥生時代以降も北海道では狩猟採集・漁労ぎょろうが中心となる続縄文文化ぞくじょうもんぶんかが展開され、沖縄や南西諸島でも貝類などの食料採集が中心の貝塚文化かいづかぶんかが展開されました。

つまり弥生時代以降、農耕文化が伝わったのは北海道と沖縄(南西諸島)を除く九州北部~東北地方の範囲だったのです。

弥生時代の水田跡

弥生時代の水田跡で有名なのは、奈良県唐古からこかぎ遺跡静岡県登呂とろ遺跡いせきです。(唐古からこかぎ遺跡という変わった名称なのは、奈良県の唐古からこ地区とかぎ地区のちょうど境目にあった遺跡だからです。)

さらに、水稲耕作が東北地方まで広まっていたことを示すのが青森県砂沢すなざわ遺跡です。砂沢遺跡からは弥生時代前期の水田跡が出土しています。

また、同じ青森県垂柳たれやなぎ遺跡からは弥生時代中期の水田跡が見つかっています。

こうした発掘調査から、弥生時代前期にはすでに東北地方にまで水稲耕作が広まっていたことが分かりますね。

弥生文化の水田跡からは、木製農具高床倉庫たかゆかそうこも出土しています。

木製農具とは、木材を磨製石器ませいせっき鉄製工具で加工して作った農具で、耕作用のすきくわえぶりや脱穀用の木臼きうす竪杵たてぎねなどのことです。

補足:「えぶり」とは水田面を平らにならす木製農具のこと。

高床倉庫たかゆかそうことは収穫物を保存しておくくらのこと。掘立柱ほったてばしらを用いることで床を高くした倉庫です。ちなみに貯蔵穴ちょぞうけつも弥生時代の食料(米)の保管施設です。

復元された高床倉庫(岐阜県高山市 古代集落の里にて筆者撮影)
復元された高床倉庫
(岐阜県高山市 古代集落の里にて筆者撮影)

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補足:水稲農耕と水稲耕作の違い

補足として、水稲農耕と水稲耕作の違いも解説します。

結論から言えば「水稲農耕すいとうのうこう水稲耕作すいとうこうさく」です。ただ単に呼び名が違うだけで、どちらも水田で米作りをするという意味です。

水稲農耕のことを水稲農業すいとうのうぎょうと呼ぶこともあります。

つまり、

「水稲農耕」=「水稲農業」=「水稲耕作」

です。

いずれも要は、水田で米作りをすることを指す言葉ですね。

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水稲耕作に関する一問一答!-9題-

定期テスト・大学入試・歴史能力検定に役立つ一問一答集を用意しました。大学受験の過去問からの出題が中心です。ぜひ日本史用語の暗記対策として活用してください。

詳しい解説を付けているので、趣味・教養として日本史を学ぶ方にとっても理解を深めることができます。

※問題をタップ(クリック)すると「解説」と「答え」を確認できます。

1.水稲耕作は、弥生時代の間に、九州北部から(  )地方にまで広がっていった。[共通テスト(旧・センター試験)・改題]

正解は東北地方です。

水稲耕作が始まったのは縄文時代晩期ですが、水稲耕作が本格的に普及したのは弥生時代からです。弥生時代になると北海道と沖縄を除く九州北部~東北地方にかけて水稲耕作が広がります。

2.佐賀県唐津市の(  )遺跡からは、縄文時代晩期の土器とともに水田跡が見つかり、大陸から水稲耕作が伝わっていたことが明らかになった。

正解は菜畑なばたけ遺跡です。

佐賀県縄文時代晩期水田跡といえば菜畑遺跡ですね。菜畑遺跡の発見によって、縄文時代晩期の九州ではすでに水稲耕作(米作り)が始まっていたことが分かります。

3.福岡県の(  )遺跡や佐賀県の菜畑遺跡は、縄文時代晩期の水稲耕作の跡と見られている。[立教大・改題]

正解は板付いたづけ遺跡です。

福岡県の板付遺跡からも、縄文時代晩期の九州ではすでに水稲耕作(米作り)が始まっていたことが分かります。

板付遺跡は縄文晩期~弥生初頭の遺跡で、この遺跡からは軍事的性質を持つ環濠集落かんごうしゅうらくも見つかっています。ちなみに板付遺跡から出土した縄文晩期の土器である夜臼式ゆうすしき土器はごくまれに大学入試で出題されます。

4.弥生文化は北海道や沖縄などの南西諸島には及ばず、北海道では(①)文化、沖縄などの南西諸島では(②)文化とよばれる食料採集を基礎とした文化が続いた。

正解は①続縄文文化ぞくじょうもんぶんか、②貝塚文化かいづかぶんか南島なんとう文化)です。

北海道続縄文文化には鉄器は伝わっていましたが農耕文化は伝わっていませんでした。そのため漁業(漁労ぎょろう)を中心とする縄文時代的な狩猟採集しゅりょうさいしゅう経済でした。

沖縄県南西諸島)の貝塚文化(南島文化)でも狩猟採集に基礎をおく生活が営まれていました。

5.1947年から50年にかけて大規模な発掘調査が行われ、弥生時代後期の集落、水田跡が明らかになった静岡市にある日本を代表する弥生時代の遺跡は何か?

正解は静岡県登呂とろ遺跡です。

この遺跡からは竪穴住居たてあなじゅうきょ高床倉庫たかゆかそうこからなる弥生時代の集落跡や水田跡が見つかっています。

6.弥生時代とみられる東日本最古の水田跡で、垂柳遺跡(青森県)などの先駆と考えられている遺跡は何か。[上智大]

正解は砂沢遺跡すなざわいせきです。

青森県には弥生時代の水田跡の遺跡が2つあり、砂沢遺跡すなざわいせき垂柳遺跡たれやなぎいせきです。

最初に青森県(東北)にも水稲耕作が伝わっていたことを明らかにしたのが砂沢遺跡です。つまり砂沢遺跡こそ東日本最古の水田跡なのです。発掘は1950年のことです。

約31年後の1981年に青森県垂柳遺跡たれやなぎいせきでも弥生時代の水田跡が発見されます。だから砂沢遺跡は垂柳遺跡の先輩なんです。

7.弥生時代の水稲耕作には木製のくわすきが使われ、収穫には穂首刈り用の石包丁が、脱穀には木臼と(  )が用いられた。

正解は竪杵たてぎねです。

弥生時代の脱穀だっこくには木臼きうす竪杵たてぎねが使われました。

8.静岡県の登呂遺跡は戦中に発見され、水田や水路、住居や(  )倉庫などの遺構いこうで有名である。

正解は高床たかゆか倉庫です。

1947~50年に発掘調査が行われた登呂とろ遺跡からは、弥生時代の水田跡だけではなく竪穴住居たてあなじゅうきょ高床倉庫たかゆかそうこ、木製農具などが見つかっています。

9.収穫された稲は(  )や高床倉庫で蓄えられた。[立命館大]

正解は貯蔵穴ちょぞうけつです。

貯蔵穴は縄文時代にはドングリなどを蓄えるために使われましたが、弥生時代になると米を備蓄するのに使われるようになりました。

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おわりに

ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。

繰り返し当記事の解説や一問一答を読み込むことで日本史の知識が定着しますので、ぜひこの記事をブックマークして日本史学習の参考にして頂ければ幸いです!

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