高校日本史Bの定期試験~大学受験に対応した飛鳥時代(592年~710年)の一問一答集です。
継体朝に始まり天武・持統朝までの政治史を扱います。(文化史と律令制度は割愛します。)
全部で43問あり、「歴史能力検定」や「教養としての日本史学習」にも役立つ内容なので、ぜひ挑戦してみてください!
作問・出題にあたっては次のような工夫をしました!
- 問題文と解説文を読むだけで「飛鳥時代の流れ」が分かるよう配慮した。
- 出題用語は大学入試頻出用語に絞り、難関大で問われる用語は解説文中で登場させるよう配慮した。
- 書き取り練習の必要な見慣れない漢字や難しい漢字は大きなフォントで示した。
- 史料問題への得点力がつくよう配慮した。
- 文章だけでは分かりづらいと判断した部分には図解や年表をいれた。
一問一答集の効果的な使い方を確認する!
- 飛鳥時代の流れを理解した上で、答えの赤字を暗記する。
- 答えの赤字を、即答できるようになるまで繰り返し問題を解く。
- 答えの赤字を暗記できたら、次は「漢字」でも書けるよう練習する。
- 「答え」以外の重要用語を繰り返し読み込んで覚える。
- 4の重要用語を「漢字」でも書けるように練習する。
「まずは飛鳥時代の流れを理解したい!」という方は飛鳥時代の総まとめを参考にしていただければと思います!
それでは、ここから問題に入っていきましょう。
「飛鳥時代の東アジア」の問題
【問題1】飛鳥時代の東アジアでは( )が強大化し、百済や新羅を圧迫した。その結果、百済・新羅の両国は、加耶諸国を圧迫した。[日本大・改題]
【解答】正解は高句麗です。
加耶(加羅)はヤマト政権の朝鮮半島における拠点でした。そのため、高句麗が強大化し、結果的に百済や新羅に加耶が圧迫されると、日本の朝鮮半島における勢力は減少しますよ。
「継体天皇の時代」の問題
飛鳥時代は正確には592年~710年で、推古朝~平城京遷都までの時期を指しますが、この問題集では6世紀初頭の継体朝~天武・持統朝までの期間を扱います。
【問題2】武烈天皇の死後( )によって継体天皇が擁立された。[学習院大・改題]
【解答】正解は大伴金村です。6世紀初め、応神天皇の系譜が武烈天皇で途絶えると、大伴金村は継体天皇を即位させ、時の権力者となります。
【問題3】大伴金村は継体天皇を擁立し権力を握った。しかし、512年に「任那四県」の割譲を( )から要請され、これに応じたことを物部尾輿に追求され失脚した。[学習院大・改題]
【解答】正解は百済です。大伴金村は、任那四県と呼ばれる朝鮮半島南部のヤマト政権の拠点を百済に譲ることができるほど、強い権力を持っていました。
しかし、この判断がきっかけとなり、大伴金村は権力を失ってしまいます。
【問題4】512年の大伴金村による任那割譲を受けて、527年には任那を回復すべくヤマト政権は、朝鮮半島へ向けて大軍を派遣した。しかし、密かに新羅と結んでいた( )に進軍を妨害された。[東京女子大・改題]
【解答】正解は筑紫国造磐井です。これが527年に起きた大事件、磐井の乱です。
ヤマト政権は百済と密接な関係にありました。これに対し、磐井は新羅と結んでヤマト政権への反乱を起こしたのです。
結果的に、ヤマト政権の朝鮮半島における勢力は縮小してしまいます。さらに562年には加耶は新羅に併合されてしまい、ヤマト政権の朝鮮における拠点は失われます。
なお、この磐井の墓は福岡県八女市の岩戸山古墳ですよ。
- 527年:磐井の乱
- 562年:加耶滅亡
【問題5】527年の磐井の乱の鎮圧後、筑紫国には( )が置かれた。[成城大・改題]
【解答】正解は屯倉です。屯倉は、大王の直轄地のことでしたね。
氏姓制度を経済的に支えた私地私民では、大王の直轄地を屯倉、直轄民を名代・子代というのでした。
「欽明天皇の時代」の問題
【問題6】欽明天皇の時代に権力を握ったのは大臣の( )と大連の物部尾輿である。[同志社大・改題]
【解答】正解は蘇我稲目です。蘇我稲目の姓は大臣で、物部尾輿の姓は大連ですよ。
蘇我稲目は大臣として主に財政を掌握し権力を握りました。
一方、物部尾輿は大連として軍事を担当し、権力を握りました。任那割譲の責任を追求して大伴金村を失脚させたのも物部尾輿ですよ。
氏姓制度を復習をしたい方は、氏と姓の違いを簡単にわかりやすく解説!氏姓制度の目的とは?を参考にしてくださいね。
【問題8】欽明天皇が仏教礼拝の可否を臣下に尋ねたところ、受け入れに積極的な蘇我稲目は、( )と対立した。[立教大・改題]
【解答】正解は物部尾輿です。渡来人を積極的に登用していた蘇我氏は、渡来人の信仰する仏教を広めようと試みます。
一方、祭祀(お祭りや儀式)を担当する中臣氏を家来としていた物部氏は、中臣氏が神道を重視していたこともあり、仏教に反対します。この対立を崇仏論争といいます。
この崇仏論争をきっかけに、蘇我氏と物部氏は対立を深めていき、最終的には蘇我氏が勝利します。
【崇仏論争】
- 蘇我氏(仏教賛成)←渡来人
- 物部氏(仏教反対)←中臣氏
継体朝~欽明朝の年表
・賄賂疑惑で大伴金村は失脚
・九州で筑紫国造磐井が反乱
・百済の聖明王が欽明天皇に仏教を伝える
・新羅が加耶を滅ぼし、日本は朝鮮半島への足がかりを失ってしまう
・4世紀~6世紀後半にかけて混乱していた中国を、ついに隋が統一する
・崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位
・推古天皇の皇子(摂政)として聖徳太子が蘇我馬子とともに国の政治を行う
・平城京へ遷都し、奈良時代がはじまる
続いて、「崇峻天皇の時代」からの出題です。
「崇峻天皇の時代」の問題
【問題9】589年に北朝系の( )が中国を統一した。これは崇峻天皇の即位から約2年後の出来事であった。[明治大・改題]
【解答】正解は隋です。4世紀~6世紀後半の中国は、いくつかの国に分かれて互いに争っており、朝鮮半島などの周辺地域の支配力が弱まっていました。
ところが、589年に隋が中国の統一を果たすと、朝鮮半島や日本に緊張が走ります。
【問題10】蘇我馬子は仏教の受容をめぐって対立していた廃仏派の( )を587年に滅ぼした。[北海道大]
【解答】正解は物部守屋です。
崇仏論争のときの蘇我氏は蘇我稲目で、その子が蘇我馬子です。同じく崇仏論争のときの物部氏は物部尾輿で、その子が物部守屋です。
馬子と守屋は実際に弓矢や剣をまじえて戦争をしますよ。その結果、勝利をおさめたのが蘇我馬子というわけです。
【問題11】蘇我馬子は物部氏を滅ぼした結果、大きな権力を握り( )天皇を即位させた。しかし次第に( )天皇が蘇我馬子に対し反抗的になると、両者は対立した。その結果、蘇我馬子は、592年に( )天皇を暗殺した。[立教大・改題]
【解答】正解は崇峻天皇です。当時、蘇我馬子は天皇をしのぐほどの権力をもっていました。
「推古天皇の時代」の問題
【問題12】日本ではじめての女性の天皇は、蘇我氏と血縁関係の深い( )天皇である。[同志社大]
【解答】正解は推古天皇です。崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子が592年に推古天皇を即位させました。推古天皇は初の女帝ですよ。
【問題13】推古天皇の政治は蘇我馬子と摂政の( )によって支えられた。
【解答】正解は厩戸王(聖徳太子)です。
聖徳太子は厩戸王ともいい、593年に推古天皇の摂政になりました。摂政とは天皇にかわって政治全般を行う地位のことです。
推古朝では蘇我馬子と聖徳太子が協力して政治を行いました。
推古朝の政治では、地方勢力を全面的に天皇の支配下におき、天皇を中心とする統一的国家組織をつくることを目指しました。
【問題14】推古朝では、氏姓制度の弊害をなくすべく、個人の功績や才能に応じて位を与える制度を603年に定めた。この制度を何というか?[西南学院大・改題]
【解答】正解は冠位十二階の制です。単に冠位十二階でも正解です。
氏姓制度では一族(氏)に与えられた姓により、世襲的に位が決まってしまいます。
一方、冠位十二階では、個人の功績や才能に応じて位が与えられました。これにより氏族単位ではなく個人単位の人材採用が可能になったのです。
【問題15】次の史料を読んで後の問いに答えよ。
一に曰く、和を以て貴しとなし、忤ふること無きを宗とせよ。……
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは、仏・法・僧なり。……
三に曰く、詔を承りては必ず謹め。……
(問1)この史料の名称は何か?[日本大]
(問2)この史料が制定されたのは西暦何年か?[関西大・改題]
(問3)この史料の出典は『( )』である。[新潟大]
【解答】
(問1)正解は憲法十七条です。厩戸王(聖徳太子)の作成と言われています。豪族に役人としての心得を示したものです。
(問2)正解は604年です。
(問3)正解は『日本書紀』です。
【憲法十七条・現代語訳】
一、和を尊び、人と争うことのないようにしなさい。
二、深く三宝を敬いなさい。三宝とは仏とその教えと僧侶のことである。
三、天皇の命令を受けたらちゃんと従いなさい。
【問題16】『隋書』倭国伝によれば、「大業三年」に推古天皇は( )を隋に派遣した。[明治大・改題]
【解答】正解は小野妹子です。大業三年とは西暦607年のことです。
小野妹子の派遣は第2回・遣隋使です。
なお、入試頻出史料である『隋書』倭国伝については「9分でわかる遣隋使!『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説」を合わせて参考にしてください。
「舒明天皇の時代」の問題
【問題17】舒明天皇の時代(630年)に初の遣唐使が実施され( )が中国の唐に派遣された。[東京経済大・改題]
「皇極天皇/孝徳天皇の時代(大化の改新)」の問題
【問題18】推古天皇が死去したとき、厩戸王の子である( )らが、有力な皇位継承者であった。[立教大・改題]
【解答】正解は山背大兄王です。
舒明天皇の皇位継承者の候補として非常に有力だったのが、厩戸王(聖徳太子)の子である山背大兄王です。
【問題19】643年、( )は山背大兄王を自殺に追い込み、権力を独占した。[上智大・改題]
【解答】正解は蘇我入鹿です。
【問題20】645年、皇極天皇のとき、中大兄皇子と( ① )は中央集権国家を目指し、( ② )を暗殺し、( ② )の父の蘇我蝦夷をも自殺に追い込み、政権を奪取した。このクーデター事件を乙巳の変といい、その後の一連の政治改革を大化の改新という。[関西大・改題]
【解答】正解は①中臣鎌足、②蘇我入鹿です。
中大兄皇子と中臣鎌足は南淵請安の塾でともに学んだ仲です。
中大兄皇子と中臣鎌足は、阿倍内麻呂や蘇我倉山田石川麻呂らと協力し、蘇我入鹿を暗殺します。また、これにともなって、蘇我蝦夷(入鹿の父)も自殺に追い込まれます。
こうして絶大な権力を誇った蘇我氏は急速に権力を失います。この645年のクーデターを乙巳の変といいます。
【問題21】大化の改新は618年に中国を統一した( )にならい、官僚制的な中央集権国家体制の確立を目指した政治改革である。
【解答】正解は唐です。
【問題22】大化の改新における( ① )天皇の治世では、従来の大臣や大連は廃止され、( ② )を内臣に任命するなど、政治体制の改革が実施された。[関西大・改題]
【解答】正解は①孝徳天皇、②中臣鎌足です。
蘇我氏が事実上、滅ぼされると、すぐに新政府が設立されます。
乙巳の変と同じ年の645年には、皇極天皇にかわって孝徳天皇が即位します。
そして、中大兄皇子は皇太子に、中臣鎌足は内臣に任命されます。
さらに新政府では、左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、「唐」から帰国した高向玄理と旻の2名は、国博士として中大兄皇子の政治を助ける地位につきます。
大化の改新=乙巳の変の後の政治改革
【問題23】孝徳天皇は人心の一新を図るため、645年に、都を( )に遷都した。
【解答】正解は難波長柄豊碕宮です。
翌646年には改新の詔が発布され、新政府の政治改革の方針が明らかにされました。
【問題24】646年に発布された改新の詔で、豪族による人民・土地の私有を廃止し、人民・土地を国家が所有する制度を何というか?[聖心女子大・改題]
【解答】正解は公地公民制です。
公地公民制は私地私民を廃止し、私有地や私有民の国有化を目指す制度です。
すなわち、天皇の私有地/私有民である屯倉/名代・子代、豪族の私有地/私有民である田荘/部曲を廃止する制度でした。
これらを国家に収めるかわりに、大夫以上には食封という形で国から給与が与えられました。
【参考記事】「改新の詔」の内容を簡単にわかりやすく解説!
【公地公民制で廃止されたもの】
- 天皇の直轄地→屯倉
- 天皇の直轄民→名代・子代
- 豪族の私有地→田荘
- 豪族の私有民→部曲
【問題25】次の史料を読んで後の問いに答えよ。
其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまへる( a )の民、処々の屯倉、及び、別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る( b )の民、処々の田荘を罷めよ。仍りて食封を大夫より以上に賜ふこと、各差有らむ。……
其の二に曰く、初めて京師を修め……
其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。……
(問1)この史料の名称は何か?[学芸大・改題]
(問2)この史料が発布されたのは西暦何年か?[学芸大・改題]
(問3)この史料の出典は何か?[日本女子大・改題]
(問4)( a )に入る語句は何か?
(問5)( b )に入る語句は何か?
【解答】(問1)正解は改新の詔です。「初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ」というフレーズから史料名を特定したいところですね。
(問2)正解は646年です。645年に乙巳の変が起こり、すぐに新政府が立ち上げられます。同645年には孝徳天皇が即位し、孝徳天皇は同じく645年に都を難波長柄豊碕宮に移します。そして翌646年に改新の詔が発布されます。
(問3)正解は『日本書紀』です。
(問4)正解は子代です。名代・子代とは天皇の直轄民のことですね。改新の詔には「名代」は出てきません。「子代の民」とだけ記述があります。
(問5)正解は部曲です。空所の直前には「臣・連・伴造・国造・村首の所有る」とあります。臣・連・国造などは全て「豪族」のことですね。豪族の持っている民という意味なので、文脈から豪族の私有民を意味する部曲が正解です。
【改新の詔・現代語訳】
その1、昔から代々の天皇がおいた子代の民や各地の屯倉、さらに臣・連・伴造・村首などの諸豪族の部曲と各地の田荘を廃止せよ。そのかわりに、大夫以上の者には、位に応じて食封を与えることにする。
その2、はじめて都をつくり…….
その3、はじめて戸籍・計帳・班田収授の法をつくれ。……
【問題26】「郡」という表記は701年に成立した大宝律令以後に用いられたとみられている。それ以前の郡に相当する行政単位を何というか?[中央大・改題]
【解答】正解は評です。
646年の改新の詔には「国・郡・里といった地方行政区画を定めるように」との記述がみられますが、実際には大化の改新の頃の地方行政区画は郡ではなく、評でした。
評は701年の大宝律令のときに「郡」に改められました。なお、評は国造が支配していた従来のクニを分割したものです。
【問題27】孝徳天皇は中央政府の支配の拡大を図り、東北地方へ進出すべく、越後国(現在の新潟県)に、蝦夷支配の足がかりとして( ① )と( ② )という2つの砦を築いた。[学習院大・改題]
【解答】正解は①渟足柵、②磐舟柵です。これらの砦は東北の蝦夷を支配下に組み込むため、越後国(現在の新潟県)の日本海側に作られました。
ここまでで、飛鳥時代(592年~710年)全体のうち、「推古朝→大化の改新」を扱いました。飛鳥時代の歴史の流れを見失わないように、いったん年表に整理しておきますね。年表を確認した後は引き続き、「斉明天皇~持統天皇」までの一問一答で日本史用語を暗記して頂ければと思います。
推古朝~大化の改新までの年表
崇峻天皇と対立した蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺し、同592年に推古天皇を即位させます。これが飛鳥時代のはじまりです。
聖徳太子(厩戸王)が推古天皇の摂政に就任し、蘇我氏(馬子)とともに政治を行います。
豪族に官僚としての心構えを説きます。
蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王を自殺に追い込み、権力を独占します。
中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となり、蘇我氏を滅ぼします。同645年に孝徳天皇が即位し、翌646年には改新の詔が発布されます。
「斉明天皇の時代」の問題
【問題28】645年の乙巳の変の後、皇極天皇にかわって孝徳天皇が即位する。しかし、654年に孝徳天皇が難波宮で死去すると、翌655年には皇極天皇が斉明天皇として( )する。[北海道大・改題]
【解答】正解は重祚です。
「皇極天皇→斉明天皇」のように、一度退位した天皇が再び皇位につくことを「重祚」といいます。皇極天皇は女性ですから、当然、斉明天皇も女性の天皇ですよ。
(参考記事)皇極天皇はなぜ斉明天皇として重祚したのか?
【問題29】斉明天皇は、( )を日本海側沿いに派遣して、水軍による蝦夷討伐を行った。[早稲田大]
【解答】正解は阿倍比羅夫です。
東北(新潟県)には孝徳天皇のとき、すでに、渟足柵(647年)・磐舟柵(648年)といった砦を築いていましたね。
この約10年後の658年になると、中大兄皇子は蝦夷討伐の政策をさらに推し進めて、阿倍比羅夫を派遣します。
阿倍比羅夫は秋田県・津軽方面の蝦夷を討伐し、さらに北海道まで進軍します。
【問題30】斉明天皇の治世で、朝鮮半島では、660年に唐・新羅の連合軍が( )を滅ぼした。[東京女子大・改題]
【解答】正解は百済です。
唐は中国を統一した国家ですね。この唐と新羅の連合軍が660年に日本と関係の深い百済を滅ぼしてしまいます。
当然、百済と仲の良かった日本も黙ってはいませんよ!
「中大兄皇子の称制」に関する問題
【問題31】660年に百済が滅亡すると、その生き残りの王族であった鬼室福信は、日本に救援要請を行い、加えて、百済の王子である豊璋の返還を求めた。援軍の求めに応じた中大兄皇子は、663年に唐・新羅連合軍と戦い大敗した。この戦いを何というか?[明治大・改題]
【解答】正解は白村江の戦いです。白村江は「はくすきのえ」とも読みます。
663年という年号も超重要ですよ!
660年に百済が滅びると、生き残った百済の王族は百済復興を願ってヤマト政権に援軍を要請します。
日本・百済の連合軍は朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と激突しますがボロ負けします。その結果、百済は完全に滅亡してしまいます。
(※白村江の戦いについては、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)
【問題32】中大兄皇子は667年に( )に遷都し、翌668年に天智天皇として即位した。[関西大・改題]
【解答】正解は近江大津宮です。近江とは現在の滋賀県のことですよ。
中大兄皇子が近江大津宮に遷都した背景としては、万が一、唐・新羅連合軍が日本に攻め入ってきた場合に、大阪湾に面した、難波宮が陥落しても首都機能が失われないように配慮したことが挙げられます。
侵略された場合の安全を考えて首都を海沿いの難波宮から内陸の大津宮に移したわけですね。
【問題33】663年の白村江での敗戦後、唐・新羅連合軍の反攻を恐れた朝廷は、664年に大宰府の北に( )を設けて防備を固めた。[慶応大・改題]
【解答】正解は水城です。水城は、唐・新羅連合軍から攻められる可能性が最も高い大宰府を守るための城です。
【問題34】665年に大宰府を防衛するために、大宰府の北の山上に築かれた朝鮮式山城を何というか?[同志社大・改題]
【解答】正解は大野城です。大野城も水城と同様に最も唐・新羅連合軍が侵攻してくる可能性の高い大宰府を守るために設置された城です。
なお、「水城」や「大野城」といった名称は、九州・福岡県福岡市の地名として現在でも残っています。
「天智天皇の時代」の問題
【問題35】668年には高句麗が滅ぼされ、676年には( )が朝鮮半島を統一した。[東北学院大・改題]
【解答】正解は新羅です。
660年には唐・新羅連合軍によって百済が滅びますよね。そして668年には高句麗が滅びる。
これで朝鮮半島には「新羅だけ」が残るわけですが、新羅が朝鮮半島統一を果たすのは、676年です。
この668年~676年の期間、今度は朝鮮半島の利権をめぐって唐と新羅が対立します。
そして676年になってようやく新羅が唐の勢力を朝鮮半島から追い出し、朝鮮半島の統一を果たすのです。
【問題36】天智天皇のもとで、668年には( ① )と呼ばれる日本で初めての律令が完成し、670年には( ② )という日本最初の全国規模の戸籍が作成された。[同志社大・改題]
【解答】正解は①近江令、②庚午年籍です。
近江令とは、天智天皇が中臣鎌足らに命じてつくらせた日本初の法律のことです。現存せず内容は不明です。存在自体が怪しいとする説も有力だったりします。
一方、庚午年籍は、天智天皇のもとで作られた日本初の全国規模の戸籍です。残念ながらこちらも現存はしていません。
なお「戸籍」とは、氏姓を正す根本台帳のことですよ。つまり、氏や姓をちゃんと把握するための一番基本となる台帳のことですね。
中大兄皇子 = 天智天皇
「天武天皇/持統天皇の時代」の問題
【問題37】天智天皇の死後、その子の( ① )と、天智天皇の弟にあたる( ② )のあいだで( ③ )と呼ばれる皇位継承争いが起こった。この争いでは( ② )が勝利をおさめ、天武天皇として即位した。[立教大・改題]
【解答】正解は①大友皇子、②大海人皇子、③壬申の乱です。
672年の壬申の乱では天智天皇の弟の大海人皇子が勝利し天武天皇(在位:673~686)として即位します。
壬申の乱は古代最大の皇位継承争いと言われています。
壬申の乱では、大豪族や中央豪族の支持を得ていた大友皇子を破ったことで、天皇の権力が大きく高まりました。
また、天武天皇は大臣をおかず、皇族を中心とする政治を行います。これを皇親政治といいます。
天武天皇は天皇と皇族が中心となる政治を実現しようとした!=皇親政治
【問題38】672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子は、翌673年に( )で即位して天武天皇となった。[中央大]
【解答】正解は飛鳥浄御原宮です。
【問題39】天武天皇は684年に( )を制定し、豪族を天皇中心の身分秩序に編成する皇親政治を行った。[神奈川大・改題]
【解答】正解は八色の姓です。
684年に制定された八色の姓は、天皇を中心とする政治を実現するための豪族の新しい身分制度です。
八色の姓は、皇族に近いほど高い地位につくものでした。
逆に八色の姓では、氏姓制度では最高位だった臣や連は下位とされました。こうして天武天皇は天皇を中心とした中央集権を強力に推し進めました。
天武天皇→天皇中心の中央集権を推進!
【問題40】7世紀の発行と考えられる日本最古の貨幣を何というか?[同志社大・改題]
【解答】正解は富本銭です。
日本における最古の貨幣は和同開珎だとずっと考えられていましたが、和同開珎より古い貨幣が作られていたことが、後から発覚しました。これが富本銭です。
【参考】和同開珎と富本銭の違い
【問題41】天武天皇の時代に完成し、その事業を引き継いだ持統天皇が689年に施行した「令」を何というか?[立命館大・改題]
【解答】正解は飛鳥浄御原令です。「令」とは現代の行政法のことです。
【問題42】690年に持統天皇が作らせた農民支配の根本台帳となった戸籍を何というか?[同志社大・改題]
【解答】正解は庚寅年籍です。
庚寅年籍は、班田収授の前提となる農民支配の根本台帳です。
【問題43】持統天皇は中国の都城制をモデルにして694年に( )へ遷都した。[國學院大・改題]
【解答】正解は藤原京です。694年という年号も頻出ですよ!
お疲れ様でした!飛鳥時代に関する一問一答集はこれで終わりです。
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