この記事は、大学受験や歴史能力検定に対応した、奈良時代の完全まとめです。
もちろん、教養として日本史を学びなおしたい方にも、最適な内容になっています。
ぜひこの記事を活用して奈良時代を「理解・暗記」していただければ幸いです!
(※この記事の最後には、一問一答も付けているのでご活用ください。)
奈良時代はいつからいつまで?
奈良時代というのは、710年の元明天皇の平城京遷都から、794年の桓武天皇による平安京遷都までの期間です。
つまり、奈良時代というのはその名の通り、奈良県奈良市の平城京に都が置かれ政治の中心だった時代のことをいいます。
現代の奈良市に都が置かれたのは、100年弱の間だったんですね。
年表から、奈良時代までの流れを確認してみましょう。
このように、奈良時代は元明天皇の平城京遷都以降のことを言います。
奈良時代の始めは元明天皇
奈良時代は、元明天皇から始まります。
元明天皇とは
飛鳥時代の終わりに、文武天皇が大宝律令を制定しました。
文武天皇が亡くなった時点では、その男の子(将来の聖武天皇)は天皇に即位するには幼すぎました。
そこで、文武天皇の母親が元明天皇として即位しました。
母親ということで、女性の天皇ですね。
元明天皇の時代の権力者
元明天皇の時代には、藤原不比等が権力を握り、政治を行っていました。
藤原不比等は、中臣鎌足(藤原鎌足)の子供ですね。
中大兄皇子と共に大化の改新で活躍した中臣鎌足は、死の直前に藤原性を与えられ藤原鎌足になります。つまり中臣鎌足が藤原氏の一番最初の人で、平安時代に隆盛を誇る藤原道長や藤原頼通も中臣鎌足の子孫になります。
藤原不比等は、飛鳥時代に刑部親王とともに大宝律令の作成に当たった人物でした。
平城京への遷都
元明天皇の時代には、それまでの藤原京から、平城京へ遷都が行われます。
平城京は奈良の都ですので、ここからが奈良時代、ということになります。
平城京は、唐の都である長安をモデルとして設計されました。
碁盤の目のように東西南北に道路が区画されており、これを条坊制と呼びます。
(※田んぼがマス目状になっているのは、条里制と言います。)
都の中央を南北に走る朱雀大路の東が左京、西が右京です。(平城宮の天皇から見て、東側は左、西側は右にあるためこのような名前が付いています。)
- 東側→左京
- 西側→右京
平城京の北側中央には政治の中心となる大内裏があり、さらにその中心を平城宮と言います。
平城宮には、天皇の住まいである内裏や、政務・儀式の中心となる朝堂院があります。
さらに朝堂院の中には、重要な儀式を執り行う大極殿があります。
大極殿と朝堂院は、「政務・儀礼の場」として、セットで覚えておけば大丈夫です。
(※平城京については、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)
平城京は、京都に対して南にあるため、南都と呼ばれます。
当時、藤原京にあった寺院の多くも、この時に平城京に移築されました。例えば、興福寺・大安寺・薬師寺・元興寺がそれにあたります。
さらに、東大寺・西大寺・法隆寺を含めたものを、南都七大寺と呼びます。
ちなみに、近年の平城京の発掘調査の結果、1980年代に長屋王の邸宅跡が見つかり、そこから3万点を超える大量の木簡が出土しています。
710年に「藤原京→平城京」への遷都が行われると、奈良時代が始まります。「なんと立派な平城京」というやつですね。
交通の整備
律令体制をしき中央集権を実現するには交通の整備は重要な課題でした。
そこで、元明天皇は官道(国が造る国道のこと)を整備しました。都を中心に日本各地に広がる道路網ですね。
この官道を維持する仕組みとして、駅制が施行されました。
駅制では、一定距離(16km)ごとに駅家を設置しました。
これは現在で言えば道の駅のような存在で、食事や休憩ができるようになっていました。
駅家には「馬」が常備されていて、馬を乗り継いで移動することができ、公用の役人の移動や、文書の伝達に用いられました。
この駅家は、普通の一般人は利用できず、公用の役人だけに限られていました。
和同開珎の発行
元明天皇の時代には、和同開珎が作られます。
和同開珎は、日本初の流通を目的とした本格的な貨幣となります。
(その前にも富本銭はありましたが、流通は目的とされていませんでした。)
武蔵国(現在の東京都、あるいは埼玉県)で新しい銅鉱山が発見され、銅が献上されたことで、「新しいお金を作ろう!」となったのです。
これにちなんで年号も、和銅と改められました。
銅が献上されたので年号は「和銅」ですが、貨幣は「和同開珎」です、漢字注意ですよ!!
(なぜ年号と貨幣の漢字が異なるのかは、コチラの記事で解説されています。)
和同開珎を最初として、これ以降に造られる乾元大宝までの12種類の貨幣を合わせて皇朝十二銭と言います。
蓄銭叙位令
せっかくお金を流通させるために作った和同開珎ですが、なかなかみんなが使ってくれません。
和同開珎は、銅が取れた、という国家の都合で作られたものであり、一般の庶民はこれまで通り物々交換で何の問題もなかったのです。
そこで政府は、和同開珎の流通を促すため、711年に蓄銭叙位令が発布されます。
蓄銭叙位令とは、お金を貯めた人に位を与える、という制度です。
しかし、この蓄銭叙位令は失敗します。お金を使わせるために作ったのに、位を得るため皆がお金を貯め込むばかりで使わなかったからです。
711年:蓄銭叙位令→「お金がないー!蓄銭叙位令」
支配領域の拡大
この時代には、中央政府(奈良)から遠く離れた地域は、政府の支配が十分に及んでいませんでした。
蝦夷支配
朝廷は東北地方の蝦夷支配を強化する作戦を考えます。
東北地方には、これまでにも陸奥の国が置かれていましたが、陸奥の国の領域はとても広いため2つに分けます。
712年には日本海側(現在の山形県や秋田県)に新たに出羽国を置くことで、陸奥国は太平洋側のみとし、支配力を強化しました。
そして出羽国の拠点とする、秋田城が築かれます。
隼人支配
九州南部の隼人を支配するため、713年には鹿児島県の東の方に大隅国を設置します。
●712年:東北に出羽国を設置
●713年:南九州に大隅国を設置
古事記の作成
ずば抜けた記憶力で天皇の系譜や伝承を覚えていた稗田阿礼から、太安万侶がその内容を取材し記述したのが古事記です。
古事記は現存する日本最古の歴史書であり、712年に完成し、元明天皇に献上されています。
この古事記には、天照大御神の話や、伊弉諾尊などの話が記載されています。
ヒエ(稗)ってご存知ですか?縄文時代から食べられている日本最古の穀物ですよ。お米と同じで納豆に合いそうですよね?
そこで「納豆に稗!稗田阿礼の古事記編纂!」と覚えましょう!
ここまでで、元明天皇の時代は終わりです。
元正天皇の時代
元明天皇から、元正天皇になります。
元ー元と同じ字が続くので、覚えやすいですね!
順番は、「明治」→「大正」の時代順と同じ、という覚え方もありますよ!
元正天皇とは
元正天皇は、文武天皇の姉であり、元明天皇から女性の天皇が続くことになります。
元正天皇の時代の最初の権力者
元明天皇の時代に続き、藤原不比等が政治の中心を担っています。
繰り返しますが、藤原不比等は中臣鎌足(藤原鎌足)の子供ですよ!
養老律令の作成
718年に、元正天皇のもとで藤原不比等は養老律令という法律を完成させます。
しかし、藤原不比等が死亡してしまったなどの諸事情によって、この養老律令はすぐには施工されず放置されます。
結局、実際に施行されたのは、なんと約40年後の757年です。
・養老律令を完成させた718年
・養老律令が施行された757年
どちらも試験に出題されますよ!!
まず養老律令の完成については、「施行はないわ!養老律令の制定」と覚えましょう!
さらにそこから約40年後が養老律令の施行ですよね?
5は「いつつ」とも言うので「40年後はさすがにないな養老律令の施行」というゴロ合わせができますね!
養老律令の史料と言えば、『令義解』です。令義解は養老律令のうちの「令(行政法)」の注釈書で833年に清原夏野が記したと考えられています。
(※令義解については、コチラの記事でより詳しく解説しています。)
日本書紀の作成
元正天皇の時代の720年に、日本書紀が完成します。
作成したのが舎人親王で、神代から持統天皇までが収録されています。
怒った出来事を年代順に記述する編年体で作成されています。
元正天皇の時代の権力者の変遷
藤原不比等が没したことで、権力者が長屋王へと移ります。
これは、藤原氏に不満を抱いていた勢力が皇族出身の長屋王のもとに集まったからです。
律令国家の動揺
律令国家の土台は公地公民制です。
公地公民制とは、「土地・人民は国の持ち物」という原則です。
また、公地公民制で重要な班田収授とは、農民に土地を貸し与え、死亡したら国に土地を返す仕組みです。
その中で、農民は与えられた土地を耕し、国に税を納めていました。
この税負担が非常に重かったため、税負担を逃れるために逃げ出す人が続出しました。
納税した後には、農民たち自身が生きていくのに必要な食料さえ不足するような状況だったからです。
なお、口分田を捨てて逃げ出すことを浮浪・逃亡といいます。
こうして公地公民制がうまく機能しなくなると律令国家は崩壊へと向かっていくのです。
その結果、税収が減り、政府は財政難に苦しむことになります。そこで長屋王は税収を回復させるための土地改革に取り組みます。
土地改革①百万町歩開墾計画
農民の相次ぐ浮浪・逃亡や人口の増加が原因で口分田はどんどん不足していきます。また貴族や豪族が不正に口分田を私有したこともあり、ますます口分田が不足します。
この苦境をなんとか打開すべく、長屋王は口分田を増やす計画を立てます。
それが722年の百万町歩開墾計画です。
しかしこの計画は結果的に失敗します。
当時の日本全国の面積が88万町歩であり、日本を全部田んぼにしても足りません。
あまりにも壮大な計画過ぎて、そもそも実行が難しかったからです。
また、農民たちにとっても農地を開墾するメリットがとくになく、農地を増やす気にはなれませんでした。
その結果、1000町歩すら開墾することができず、失敗に終わりました。
722年:百万町歩開墾計画→「何に百万使ったの?百万町歩開墾計画!」
土地改革②三世一身の法
722年の百万町歩開墾計画が失敗に終わり、口分田の不足の問題がいまだ解決していません。
三世一身の法とは、新たに灌漑施設(田んぼに水を引く施設)を作って開墾した土地には3世代、すでにある灌漑施設を利用して開墾した土地には1世代の私有を認める制度です。
これまでの口分田は、あくまで国から貸し与えられるものであり、田んぼは自分の所有物ではありませんでした。
ですが、もし私有が認められるのであれば、新しい田んぼを開拓するモチベーションが生まれます。
百万町歩開墾計画の失敗に学んで、人々に農地を開墾するメリットを与えたのですね。
この三世一身の法は、「土地と人民は国家のものである」という公地公民の原則に反しますが、口分田の不足に悩む政府は、仕方なくこの法律を施行したわけです。
しかし結局、この三世一身の法も失敗に終わります。
私有はあくまで期限付きだったので、期限が近付くと農地が再び荒れるといった制度上の不具合が出てきたからです。
この百万町歩開墾計画と三世一身の法の失敗を受けて、次の聖武天皇の時代に墾田永年私財法が制定されるのです。
(三世一身法の史料は大学入試でもよく出題されるので、より詳しい解説を知りたい方はコチラの記事をご確認ください。)
三世一身の法が制定された723年は、「三世一身じゃ、なにさ、結局は国のもの」というゴロで覚えると覚えやすいですね!
- 722年:百万町歩開墾計画➡失敗
- 723年:三世一身の法➡失敗
ここまでで、元正天皇の時代は終わりです。
聖武天皇の時代
文武天皇の死後、元明・元正天皇の時代を経たのちに、聖武天皇の時代になります。
聖武天皇とは
ここまでは、まだ幼かった将来の聖武天皇に代わって元明天皇・元正天皇が即位してきました。
元正天皇の譲位を受けて、聖武天皇が即位します。
藤原氏の復活、藤原四子とは?
冒頭で「奈良時代は藤原氏の浮き沈みがとても激しい時代」だとお伝えしました。
元正天皇の時代に藤原不比等が没したことで長屋王に権力が移っていましたが、聖武天皇の時代になると、藤原氏は再び権力を握ります。
聖武天皇の母親は藤原不比等の娘だったので、聖武天皇から見ると、藤原不比等は祖父にあたります。
つまり聖武天皇は藤原氏の家系です。そのため、親戚でもあり祖父の子でもある藤原四子が権力を持つようになるのです。
藤原四子とは具体的には、次の4人のことです。どれも入試頻出ですよ!
- 藤原武智麻呂(南家)
- 藤原房前(北家)
- 藤原麻呂(京家)
- 藤原宇合(式家)
藤原四子の権力強化
聖武天皇の時代の初期には、長屋王はまだ権力の座にいました。
この長屋王を邪魔に思った藤原四子は729年に長屋王に謀反の罪を着せて自害させます。
これを長屋王の変といいます。
光明子
長屋王を滅ぼし、無事に権力を固めた藤原四子ですが、さらに権力を強化するために今度は自分たちの妹にあたる光明子を聖武天皇の皇后にします。
光明子が皇后になれた理由
藤原氏は中臣鎌足(藤原鎌足)を祖とする一族ですから、皇族ではなく「貴族」です。光明子は藤原四子の妹ですから、「貴族」の娘です。
皇后になれるのは皇族だけなので、光明子は普通、皇后にはなれないのですが、長屋王とその一族を全て殺すことで、無理矢理に光明子を皇后にしたのです。
これにより藤原四子の権力は確かなものになります。
729年:長屋王の変→光明子が皇后に!
きっと藤原四子は何食わぬ顔をして長屋王に謀反の罪を着せたに違いありませんね?
ここで語呂合わせです。「何食わぬ顔で謀反の罪!長屋王の変!」
藤原四子の病死
せっかく権力を握った藤原四子ですが、737年に4人とも病気で死去してしまいます。
原因は伝染病で、おそらく天然痘だと考えられており、新羅から入ってきたとも言われています。
一度に重臣が4人も亡くなるのは、只事ではありません。
そこで語呂合わせです。「なみだ、なみだで四子没!」
橘諸兄
藤原四子が亡くなった翌年の738年、皇族出身の橘諸兄が時の権力者になります。
橘諸兄は、唐への留学で先進的な知識を学んだ吉備真備と玄昉に政治を手伝わせます。
藤原広嗣の乱
藤原四子の1人に藤原宇合がいましたね。
宇合の子である藤原広嗣は、当時は九州の太宰府にいましたが、橘諸兄らに反発し740年に反乱を起こします。
これを藤原広嗣の乱といいます。
しかし、この「藤原広嗣の乱」は鎮圧され、藤原広嗣は死去してしまいます。
聖武天皇の不幸
聖武天皇は藤原氏の家系です。
にもかかわらず政治を任せた藤原四子は相次いで病死し、さらに藤原氏から藤原広嗣のような反乱者まで出てしまったわけです。
こうした出来事は聖武天皇に大きなショックを与えました。
思い悩んだ聖武天皇は不安からか、次々と都を移します。
「くに➡なにわ➡しがらき➡へいじょう」と1文字ずつ増えていく!と覚えると、覚えやすいです。
仏教政治の推進
さらに聖武天皇は国土の平安を願い仏教の力で国を治めようと考えます。これを鎮護国家思想といいます。
具体的には、741年に国分寺建立の詔を出し、全国に寺を作ります。
きっと相次ぐ不幸で聖武天皇は落ち込み、とてもむなしい気分になっていたはずです。
そこで、「とてもむなしい国分寺建立の詔」と覚えておきましょう。
土地改革③墾田永年私財法
口分田の不足に悩んだ朝廷は、長屋王が権力者だったときに百万町歩開墾計画、そして三世一身の法という2つの政策を発表しますが失敗に終わっていました。
この失敗を踏まえて、今度は橘諸兄政権のもとで743年に墾田永年私財法が出されます。
これは開墾した土地を永久に私有することができる制度です。
墾田永年私財法では土地の永久私有を認め、土地の国有を諦めましたよね。
そこで、「国有はなしさ、墾田永年私財法!」と暗記しましょう。
墾田は輸租田の一種
ただ「墾田は永久私有できる!」といっても、税は納めなければいけません。
税として租を納めなければいけない田を輸租田といいます。ですから墾田も輸租田の一種です。
公地公民制の崩壊
土地の永久私有が許可されたことにより、貴族・寺社・有力者は人を雇って私有地を拡大します。
公地公民制では土地は国家の持ち物ですが、このルールから外れた大規模な私有地が登場する。
これを荘園といいます。とくに墾田永年私財法の影響で登場した荘園を初期荘園といいます。
その結果、律令国家の土台である公地公民制は完全に崩壊してしまいます。
貴族が私有地を広げるっていうのはわかるんだけど、寺社が大規模な私有地を持つってどういうこと?
もともと推古天皇のころには、お寺が運営費用を稼ぐために寺田で農作物をつくっていたんだ。
つまりお寺や神社が農業を営むのは普通のことだったの?
そうだね。そして墾田永年私財法で墾田の永久私有が許可されると、大規模なお寺や神社は農民を雇って、積極的に田地の開発を進めたんだよ。
そっかー。そんな感じで、私有地をどんどん広げていったものを荘園(初期荘園)と呼ぶんだね!
墾田永年私財法の史料問題は入試超頻出です!三世一身の法の史料と勘違いしがちなので注意してください。
大学受験を目指す方はコチラの記事で墾田永年私財法の史料を必ず確認しておきたいですね!
元明天皇~聖武天皇のまとめ
ここまでの解説の中で、次々に権力者が交代して混乱してしまうかもしれません。
ここでいったん元明天皇~聖武天皇までの権力者の移り変わりを整理していきましょう!
まず天皇の順番を確認します。
次に権力者の順番のおさらいです。
元明天皇~聖武天皇の時代の権力者
・藤原不比等は、中臣鎌足(藤原鎌足)の子。
・藤原不比等の死後、藤原氏が権力を失い皇族出身の長屋王が実権を握る。
・光明子を皇后にするため、藤原四子が729年に「長屋王の変」で長屋王を自害に追い込む。藤原氏が復活するも藤原四子は病死してしまう。その後、皇族出身の橘諸兄が実権を握る。これに対し藤原広嗣が反乱を起こすも失敗に終わる。
奈良時代は、本当に藤原氏の浮き沈みが激しいことが分かるね。
次の孝謙天皇以降も、藤原氏の浮き沈みが続きますが、最終的には藤原氏に権力の座が戻ります。
孝謙天皇の時代
孝謙天皇(在位749~758)の父親は聖武天皇です。
孝謙天皇は聖武天皇の娘なので女性の天皇です。また孝謙天皇の母親は光明子です。
光明子は藤原四子の妹でしたね。つまり光明子は藤原氏の人間です。
このとき光明子は光明皇太后という立場で、政治の実権を握ります。
藤原仲麻呂の権力拡大
光明皇太后は、藤原仲麻呂を紫微中台という役所の長官に就任させ、非常に強い権限を持たせます。
そして756年には、藤原仲麻呂が橘諸兄を政権から引きずりおろし時の権力者となります。
翌757年、藤原不比等が完成させた養老律令が藤原仲麻呂によってようやく施行されます。
同じく757年に、仲麻呂政権に不満を持った橘諸兄の子の橘奈良麻呂が反乱を起こしますが、失敗に終わります。
こうして、藤原仲麻呂の権力は絶大なものとなり、藤原氏が再び政治の中心に復帰します。
淳仁天皇の時代
孝謙天皇の後は、淳仁天皇の時代です。
淳仁天皇の即位
藤原仲麻呂は孝謙天皇と対立します。そこで、孝謙天皇を退位させます。
これによって、孝謙天皇は孝謙上皇となります。
そして仲麻呂は自分の思い通りに動いてくれる淳仁天皇を立てます。
そして、淳仁天皇は藤原仲麻呂に恵美押勝の名を与えます。
孝謙上皇と道鏡
一方、孝謙上皇は自分の病気を熱心に看病してくれた道鏡という僧侶を重用します。
また当然ですが、孝謙上皇は自分を天皇の位から引きずりおろした藤原仲麻呂(恵美押勝)を良く思っていません。
光明皇太后の死去により藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力の土台を失うと、孝謙上皇のパートナーである道鏡が勢力を拡大したわけです。
恵美押勝と道鏡の対立
その結果、
淳仁天皇&恵美押勝
VS
孝謙上皇&道鏡
という構図ができあがります。
恵美押勝の乱
藤原仲麻呂(恵美押勝)は道鏡を政治の世界から追い出そうと考え、764年に恵美押勝の乱を起こします。
この戦いは非常に激しいものでしたが、結果的に藤原仲麻呂(恵美押勝)は敗死します。
764年に藤原仲麻呂(恵美押勝)は敗れます。
「仲麻呂(なかまろ)死す、恵美押勝の乱!」と暗記しましょう。
また、淳仁天皇は淡路に流されてしまいます。
「淳仁天皇が淡路に流された」という点を問う問題が、しばしば大学入試に出題されています。
大学受験対策で日本史を勉強している方は、しっかりと押さえておきましょう。
称徳天皇の時代
ここからは、称徳天皇の時代です。
孝謙上皇の重祚
淳仁天皇が淡路に流されると、孝謙上皇(元孝謙天皇)が称徳天皇の名で再び皇位につきます。
孝謙天皇は聖武天皇の娘で、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物ですから、称徳天皇は女性ですよ。
道鏡の権力独占
この称徳天皇のもとで、道鏡は権力を独占します。そして765年には太政大臣禅師になり、翌766年には仏教の最高権力者である法王にまで出世します。
そしてなんと、道鏡は天皇家の血筋とは全くの無関係にもかかわらず、天皇の位を狙います。
宇佐八幡神宮神託事件
道鏡は、大分県の宇佐八幡宮で「次の天皇は道鏡にせよ」とのお告げが出たと主張し、皇位につこうとしますが、和気清麻呂の必死の努力で阻止されます。
その結果、和気清麻呂は大隅国(鹿児島県)に流されますが、道鏡の失脚後にはちゃんと呼び戻されますよ。
この769年の事件を宇佐八幡神宮神託事件といいますが、翌770年に称徳天皇が亡くなると、光仁天皇のときに、道鏡は下野の薬師寺に左遷され失脚します。
道鏡は僧ですから、南無阿弥陀仏と唱えることもあるかもしれませんね。
そこで、「南無、国欲しい!宇佐八幡神宮神託事件!」と覚えておきましょう。
光仁天皇の時代
770年には、天智天皇(中大兄皇子)の孫にあたる光仁天皇が即位します。
この時代の権力者は、藤原宇合の子の藤原百川です。藤原宇合(式家)は藤原四子の一人でしたね。
そして、藤原百川は藤原氏の勢力回復に努めます。
奈良時代のまとめ
奈良時代は藤原氏の浮き沈みが激しい時代でしたが、最終的には藤原氏が権力を握るのですね。
この後、794年に桓武天皇が平安京に遷都すると、平安時代へと移り変わっていきます。
最後に年表で奈良時代を振り返っておきましょう!
奈良時代のまとめ
権力者:藤原不比等
元号を和銅に改める
奈良時代のはじまり
権力者:藤原不比等
施行は約40年後の757年!
元正天皇のもとで長屋王が権力を握る
計画が壮大過ぎて失敗に終わる
期限付きで土地の私有を認めたが、失敗に終わる
権力者:藤原四子
藤原不比等の娘である光明子が皇后に
天然痘で相次いで病死
聖武天皇のもとで橘諸兄が政治の実権を握る
大宰府で反乱→失敗
土地の永久私有を認めたことで、公地公民制は完全に崩壊する
→初期荘園の出現
権力者:藤原仲麻呂
同757年:橘奈良麻呂の変
権力者:藤原仲麻呂
道鏡が恵美押勝に勝利
道鏡が皇位を狙うも失敗
権力者:藤原百川
同770年:道鏡が下野薬師寺に左遷され失脚
平安時代のはじまり!
ここまでで学んだ知識を確認したい方は、以下の奈良時代に関する問題集に挑戦してみてくださいね!
コメント
コメント一覧 (4件)
苦手意識のある日本史も奈良時代まで流れを理解できて語句も覚えることが出きました
どのサイトよりもわかりやすく時代の流れに沿って解説していて理解しやすかったです
もしよかったら平安以降も出していただきたいです
よろしくおねがいします
あい 様
記事を読んでくださり、またコメントまで頂き誠にありがとうございました。
「どのサイトよりも分かりやすい」と言って頂けたこと、大変うれしく思っております。
平安時代以降についても、今後、なんとか時間を作って記事執筆していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
天皇という目安で流れを学べて分かりやすい!
日本史を学ぶ学生としてはとてもありがたいので続きの執筆も楽しみにされていただきます。
たに 様
このたびは記事を勉強の参考にして頂き、誠にありがとうございました。
そういった嬉しいコメントを頂けることが、記事執筆のモチベーションになっております。
平安時代以降も書いていきたいとは思っているのですが、1記事の執筆にも膨大な労力がかかるため、なかなか進んでいないのが正直なところです。
ですが、今後なんとか取り組んでいく所存ですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。