この記事では高校日本史Bの範囲の遣唐使を超わかりやすく解説します。
大学入試に必要な遣唐使の知識をふんだんに盛り込み、最後に一問一答を付けています。
歴史能力検定や教養としての日本史学習にも大いに役立つ内容になっているので、ぜひ参考にしてください!
遣唐使とは
遣唐使の前には、遣隋使が派遣されていました。
しかし618年になると隋が滅亡し、遣隋使も終了します。
新しく唐という国が誕生すると、630年に犬上御田鍬が初の遣唐使として唐に派遣されました。
これは飛鳥時代の舒明天皇の時ですね。
この630年の遣唐使以後、894年に中止されるまでの間、遣唐使は20回計画され、16回渡海しています。
当時の唐は世界的な大帝国であり、その都である長安や中国第二の都市である洛陽が遣唐使の目的地でした。
日本から船を使って、なんでそんな遠くまで行く必要があったの?
遣唐使を派遣することで、律令制度をはじめとする唐の先進的な政治や文化を学ぼうとしたんだよ。
奈良時代の遣唐使
奈良時代の遣唐使でとくに有名なのは、聖武天皇の時代の橘諸兄政権で活躍した吉備真備と玄昉です。
吉備真備や玄昉と同じ回の遣唐使で唐に留学した阿倍仲麻呂は、唐の皇帝である玄宗に重く用いられ、唐の高官として活躍。日本に帰国しないまま中国で一生を過ごしました。
平安時代の遣唐使
さらに時が進み平安時代になると、最澄や空海も唐で仏教を学んで帰国します。
そして、838年が最後の遣唐使となり、最澄の弟子である円仁が派遣されます。
894年になると菅原道真の建議で遣唐使が廃止されます。「建議」とは意見を上層部に申し伝えることですよ。
白紙(はくし)に戻す、遣唐使!
遣唐使の廃止の背景には、「唐への派遣の多大なコストに比べ、得られるものが小さくなってきた」という判断があったと考えられています。
実際に、8世紀後半から唐は内乱で政情が不安定化し衰退し続けており、907年には唐は滅亡してしまいます。
遣唐使のルート
630年~7世紀後半の遣唐使では、安全性の高い北路を使って唐を目指しました。北路とは「九州→壱岐島→対馬→朝鮮半島→中国」というルートです。
ちょっと対馬をGoogleマップで確認してみましょうか。ちょうど朝鮮半島と九州の中間にあって便利ですよね。
(↑この地図の中心に位置する縦長い島が対馬。)
しかし、663年の白村江の戦い以後、新羅と敵対関係になります。
(※白村江の戦いについては、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。)
その後、新羅から日本に新羅使を何度も送ったり、日本も遣新羅使を送ったりしますが、日本が新羅を属国として扱おうとしたため関係がさらに悪化。
実行こそしませんでしたが、奈良時代に活躍した藤原仲麻呂が新羅征伐計画を立てるほどでした。
この関係悪化が原因で新羅(朝鮮半島)を経由する北路が使えなくなると、8世紀後半以降には非常に危険な南路を用いるようになります。
南路とは上図の赤線のように九州から直接、中国に向かうルートです。南路は途中で嵐にあっても避難できる陸地がなく、とても危険な航路でした。
ちなみに、遣唐使は約20年に1回のペースで実施され、20年ごとに4隻の船に分乗して400人~500人が海を渡りました。
そのため、遣唐使のことを「よつのふね(四つの船)」ともいいます。
しかし、前述の南路は当時の技術では非常に危険なルートであったため、遭難などが原因で数多くの人が命を落としました。
渤海について
また、遣唐使と少しだけ話しはズレますが7世紀末に中国の東北部に渤海という国が起こると、渤海は唐や新羅に対抗するため頻繁に日本に使者を送るようになりますよ。
「敵(=新羅)の敵は味方」というやつですね。
「渤海」は遣唐使とセットで外交史として入試に出題されやすいので、注意してくださいね!
遣唐使のまとめ
- 630年の犬上御田鍬の派遣~894年の菅原道真による遣唐使の中止までが日本と唐の外交史。
- 20回の遣唐使が計画され、16回の渡海が行われた。
- 遣唐使の目的は、律令制度や仏教といった唐の先進的な技術や文化を学ぶことだった。
遣唐使に関する一問一答 8題
一問一答集を何度も繰り返すことで、確実に重要事項を覚えることができます。
※それぞれの問題をタップ(クリック)すると、解答解説が表示されます。
【問題1】630年の最初の遣唐使で派遣された人物は?
【解答】正解は、犬上御田鍬です。犬上御田鍬は、最後の遣隋使も経験しています。
【問題2】遣唐使として唐に留学した( )と( )は、帰国後、聖武天皇に重用されて政界で活躍した。
【解答】正解は、吉備真備、玄昉です。二人は、聖武天皇の時代の橘諸兄政権を支えるブレーンとして活躍します。
【問題3】吉備真備や玄昉と同じ回の遣唐使で唐に留学し、唐の皇帝である玄宗に重く用いられ、日本に帰国しないまま中国で一生を過ごした人物は誰か?
【解答】正解は、阿倍仲麻呂です。
【問題4】遣唐使の一行は、大使以下留学生ら400~500名におよび、4隻の船に分乗して海を渡ったことから、( )と呼ばれた。
【解答】正解は、よつのふねです。
【問題5】遣唐使の航路は、初め北路をとったが、( )との関係が悪化した8~9世紀には危険な南路をとった。
【解答】正解は、新羅です。
【問題6】838年の最後の遣唐使で派遣された人物は?
【解答】正解は、円仁です。円仁は、試験に頻出ですよ!
最澄の弟子である円仁は、出国後から帰国までの約10年間を日記式で記録し続けました。これが入唐求法巡礼行記であり、遣唐使の記録史料としてとても貴重です。
【問題7】菅原道真の建議によって遣唐使が廃止されたのは何年か?
【解答】正解は、894年です。「白紙(はくし)に戻す、遣唐使!」でしたね。
【問題8】中国北東部などに住む靺鞨族や旧高句麗人を中心に建国した( )は、唐や新羅との対立を背景に日本と通交した。
【解答】正解は、渤海です。渤海と日本の間には外交的な問題が少なかったため、通商中心の良好な関係が続きました。
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