この記事では、『魏志』倭人伝の内容を超簡単にわかりやすく解説しています。
一問一答機能もついているので、定期試験・大学受験・歴史能力検定の参考としてぜひご活用ください。
『魏志』倭人伝とは
『魏志』倭人伝は、3世紀後半に普の陳寿が記した歴史書である『三国志』の一部の内容のことです。
『魏志』倭人伝には3世紀(弥生時代後期)の邪馬台国や卑弥呼の様子が書かれています。3世紀の日本の情勢を物語る貴重な文献史料と言えるでしょう。
それでは早速、『魏志』倭人伝の中身を見ていきましょう!
帯方郡
倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。
現代語訳倭人は帯方郡の東南の海の中にある山がちな島に小国を形成している。日本というのは山がちな国で、朝鮮半島の帯方郡の東南の海に囲まれたところにある、と書かれています。帯方郡とは現在のソウル付近のことです。当時、帯方郡は魏の領土でした。
『魏志』倭人伝は長いですが一緒に頑張って読み解いていきましょう!次に進みますね!
魏と倭の外交
旧百余国。漢の時朝見する者あり。今、使訳通ずる所三十国。
「旧百余国。漢の時朝見する者あり」とは『漢書』地理志のことを言っています。『漢書』地理志の頃の日本(紀元前1世紀頃)は100余りの国に分かれていて互いに争っていたわけです。その頃の100余りの国の中には中国にお土産を持って挨拶に行く国もあった。こうした行為を朝貢といいます。
で、「今、使訳通ずる所三十国。」とありますから、今日本と魏の間で朝貢関係にあるのは30の国々だということです。
この日本の30国は互いに争っていたわけではなく、同盟を結んで連合国家を作っていた。それが邪馬台国です。そして邪馬台国の女王が卑弥呼なわけですね。
邪馬台国への道順
郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、…(中略)…邪馬台国に至る。
冒頭の「郡」とは帯方郡のことです。これは入試超頻出ポイントですよ。
で、邪馬台国に行くには帯方郡から海沿いに移動して韓国を経て、南へ進み、東へ進み…邪馬台国に至る。と邪馬台国への道順が細かく記してあります。
しかし、この『魏志』倭人伝のナビがイマイチあてにならない。そのせいで未だに邪馬台国の位置は不明なままで、これを邪馬台国論争といいます。
邪馬台国論争では九州説と畿内説が有力です。
邪馬台国の身分制度
女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を忌憚す。…下戸、大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手地に拠り之が恭敬をなす。
現代語訳女王国より北側の同盟国には一大率という役人が置かれ、その国を監視している。諸国はこの一大率をとても恐れている。…下戸と呼ばれる一般庶民が支配階級の大人と道で会うと、道の横の草の中に入って道を空け、言葉をかけるには、地面にひざまずき、両手を地につけて大人を敬わなければならない。同盟国を監視するために伊都国に派遣されたのが一大率という役人です。
そして、どうも邪馬台国では一般庶民を下戸、支配階級を大人と呼んでいたらしいことがわかります。下戸・大人は史料の穴埋め問題で狙われますよ。「下戸→大人」の順番ですので注意してください。
このことから邪馬台国には厳しい身分制度があったことがうかがい知れますね。
卑弥呼
其の国、本亦男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。
男子を王にしたがうまくいかなかったので、女性の卑弥呼を王にしたところ邪馬台国がうまく治まったということが書かれています。
続いて、卑弥呼の特徴について紹介されています。
鬼道を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐けて国を治む。
「鬼道を事とし、能く衆を惑はす。」とあります。「呪術に優れ、人々をうまく統率した」という意味です。
つまり卑弥呼は鬼道(宗教的権威)を背景に邪馬台国を統率していたことが分かります。
「夫壻無く、男弟有り、佐けて国を治む。」の部分は「夫はいないが弟がいて、その弟が政治を補佐している」という意味になっています。
親魏倭王
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣はし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。…其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、…今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。…
現代語訳239年6月、倭の女王の卑弥呼は、大夫の難升米を使者として帯方郡に派遣してきた。この使者は魏の皇帝に朝貢したいと希望した。その年の12月に魏は卑弥呼に親魏倭王の称号を与え、金印に紫の紐をつけ、帯方郡の役人を通じて金印を与えた。「景初二年」は他の史料から「景初三年」の間違いだと分かっています。景初三年は西暦239年です。
この年に大夫という身分の難升米という人物が帯方郡に朝貢にきたわけです。その結果、卑弥呼は親魏倭王の称号をゲットします。
卑弥呼の死
卑弥呼以て死す。…(中略)…更に男王を立てしも、国中服せず。…また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。…
『魏志』倭人伝には卑弥呼の死と、その後についても書いてあります。
卑弥呼は狗奴国との戦争で死亡しました。その結果、国が乱れた。
そこで13歳の宗女であった壹与を女王にしたところ国がようやく治まったらしい。
もしかすると邪馬台国は女王でないとうまく治めることができなかったのかもしれませんね。
さて、ここまでで『魏志』倭人伝の解説は終わりです。
ここからは一問一答で知識を定着させていきましょう。ぜひ定期試験・大学入試・歴史能力検定の参考にしてください。
『魏志』倭人伝に関する一問一答!
1.後漢の滅亡後、3世紀には中国は( )・蜀・呉の3国に分かれていた。[青山学院大・改題]
2.特に魏は強大で倭国との関係も深かった。この魏のことを記録した『(①)』倭人伝には女王(②)が西暦(③)年に遣使を送り(④)の称号と多数の銅鏡を贈られたことが記されている。[青山学院大・改題]
3.伊都国に置かれたとされる地方監察官の名称は何か?
4.邪馬台国の身分制度において、支配階級の身分を(①)といい、庶民の身分を(②)という。
5.卑弥呼の死後、男王を経て、女王となった宗女は誰か?
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