奈良時代に入ると、中国との交流は遣隋使から遣唐使へと名前を変えます。
遣唐使は朝貢貿易でもありましたが、一番の目的は、唐の先進文化を学び取ることでした。
遣唐使の派遣回数は諸説ありますが、最大で20回程度と言われています。
そんな遣唐使にあって、吉備真備や玄昉と同じ船に乗って留学生として入唐したのが、阿倍仲麻呂です。
目次
阿倍仲麻呂とは、どんな人物か?
717年(養老1年)、阿倍仲麻呂は20歳の若さで、遣唐使に抜擢されました。まさに”超秀才”と言えますね。
留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は、中国名では朝衡と名乗り科挙にも合格。その後、30年以上も中国の皇帝玄宗に仕え、様々な官職を歴任します。
阿倍仲麻呂は、唐代を代表する天才詩人である、李白や王維らと親交をもつほど文才にも恵まれていました。
阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由
734年(天平6年)、第9次遣唐使船で吉備真備と玄昉は帰国の途につきますが、阿倍仲麻呂は帰国せずに、中国に残る選択をします。
玄宗が阿倍仲麻呂の才を惜しみ、なかなか帰国できなかったと言われています。
ですが阿倍仲麻呂は、752年にようやく日本への帰国を決意するのです。
ところが仲麻呂の乗った船は暴風雨にあい、結局、命からがら長安に戻るしかありませんでした。
長安に戻った阿倍仲麻呂は、再び官職に就き、770年に73歳で長安で亡くなりました。
阿倍仲麻呂の百人一首
阿倍仲麻呂が日本への帰国へを決意したとき、王維らとの送別会で詠んだ名句が、百人一首に収録されています。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出し月かも
【現代語訳】
天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が出ている。あの月は私の故郷である、春日の三笠山に出ていたのと全く同じ月なのだなぁ…。
日本への望郷の想いを見事に表した、素晴らしい一句ですね。
まとめ:阿倍仲麻呂の生涯
- 717年:吉備真備・玄昉とともに、20歳の若さで遣唐使に抜擢される。
- 734年:帰りの船に乗れず。吉備真備・玄昉はなんとか帰国。
- 752年:阿倍仲麻呂は帰国を決意するも、船が暴風雨に遭い、断念。
- 770年:73歳で長安にて死去。日本への帰国は果たせなかった。
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