この記事では、邪馬台国の卑弥呼について簡単にわかりやすく解説しています。
三国志の時代の魏との関係や、卑弥呼の死後についても説明しているので、ぜひ参考にしてください。
目次
邪馬台国の成立と卑弥呼
卑弥呼は、中国の歴史書である魏志倭人伝(『三国志』)にのみ、記録が残っている人物です。
当時の日本には100余りの小国がありましたが、何十年も激しい争いが続いていました。
そこで巫女の家系である卑弥呼を女王にしたところ、諸国の戦乱がおさまったのです。
こうして女王「卑弥呼」を盟主とする政治連合、「邪馬台国」が誕生しました。
卑弥呼はどのように政治を執り行ったのか?
卑弥呼は1,000人の召使いを従え、武装した兵士に守られ、宮殿の奥深くから出てこなかったと言い伝えられています。
『魏志』倭人伝には、「鬼道を事とし、能く衆を惑はす」とありますが、「鬼道」とは呪術や占いのことです。
卑弥呼の「占い」は、弟が人々に伝えていました。
つまり、卑弥呼を盟主として、弟が政治の補佐を担当していたのです。
また、卑弥呼は生涯独身を貫いたとされています。
「魏」への遣使
卑弥呼は239年に、大夫の難升米という人物を魏に派遣しています。
卑弥呼の遣使に対して、魏の皇帝は「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚などを返礼の品として贈りました。
結果的に魏の後ろ盾を得た邪馬台国は、敵対する国よりも優位に立てたものと考えられます。
卑弥呼の死去とその後
245年ごろ、邪馬台国は、現在の熊本県にあったと考えられる狗奴国と交戦。
狗奴国との戦争が原因かどうかは定かではありませんが、この頃に卑弥呼は亡くなってしまいます。
その後、男王が立ちますが、次第に豪族間の争いは激化。
卑弥呼と同じ一族出身の女性、壱与(台与)を女王にしたところ、争いは沈静化します。
この後、3世紀後半から4世紀にかけてヤマト政権が成立しますが、邪馬台国との関係は不明です。
まとめ:卑弥呼の生涯
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