この記事では、『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説します。
『隋書』倭国伝を理解すれば遣隋使も同時にマスターできるので、大学受験や定期テストなどに活用してください。
『隋書』倭国伝の概要
まず「隋書」とは、7世紀に魏徴らが編纂した中国の歴史書です。
この「隋書」の一部に当時の日本についての記述があり、これが『隋書』倭国伝と呼ばれています。
隋書倭国伝でとくに大切なのは、遣隋使に関する記載内容です。
遣隋使の年表
ここで「遣隋使の歴史」を、年表形式で確認しておきましょう!
遣隋使の年表
使者不明
小野妹子が隋に対等外交を求める
小野妹子が再び隋へ向かう
犬上御田鍬 が最後の遣隋使として隋に渡る
『隋書』倭国伝の内容を簡単にわかりやすく解説!
ここからは、各回の遣隋使の詳細を『隋書』倭国伝の本文とともに確認していきましょう。
第1回・遣隋使に関する記述
開皇二十年、倭王姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞彌と号す。使を遣して闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪はしむ。…
「開皇二十年」とは西暦600年のことです。第1回・遣隋使の使者は誰なのか分かっていません。
ただし現代語訳からも分かる通り、第1回・遣隋使のときの中国(隋)の皇帝は文帝です。
また、倭王の名前は多利思比孤とありますが、これは男性名です。しかし当時の天皇は推古天皇(在位:592年~628年)で、女性です。
なので、この「多利思比孤」が誰を指しているのかもよく分かっていません。
ちなみに遣隋使は全て推古天皇の時代に行われています。
また、推古天皇の時代の権力者は聖徳太子と蘇我馬子です。
第2回・遣隋使に関する記述
大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。
今回も倭王は多利思比孤という男性名ですが、実際は推古天皇(女性)の時代の話です。
この607年の第2回・遣隋使が、有名な小野妹子の遣隋使です。
其の国書に曰く「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿れ」と。明年、上、文林郎裴清を遣して倭国に使せしむ。
小野妹子は非常に失礼な国書を持って隋の皇帝、煬帝のところへ派遣されました。
なにせその国書には、日本は「太陽の昇る国」、中国は「太陽の沈む国」と書いてあるわけですから。
なぜこのような失礼な国書を持っていったのか?
それは従来の朝貢外交を脱し、日本と中国の対等外交を目論んでいたからです。
そしてこの作戦は、見事成功します。
小野妹子は、首をはねられてもおかしくないレベルで中国に失礼な国書を持っていったわけですが、このとき中国は高句麗との戦争でとても苦しんでいたので、このタイミングで日本を敵に回すのは得策ではないと考えたのです。
そこで中国は、この国書へのお礼の使者として、翌608年に裴世清を日本に派遣します。
こうした対等外交の成功は、推古天皇や聖徳太子の外交的勝利と言えるでしょう。
第3回・遣隋使
第3回・遣隋使の様子は『日本書紀』に書かれています。
『日本書紀』によれば、608年の9月に裴世清が中国に帰国します。
この裴世清の帰国に合わせて、小野妹子も再び隋へ向かいます。
このとき、留学生として高向玄理、留学僧として南淵請安と旻が同行します。
こうした留学生・留学僧は隋の滅亡と唐の建国を体験し、後の大化の改新に大きな影響を与えます。
まとめ
- 第1回・遣隋使は600年に行われた。
- 607年の第2回・遣隋使では小野妹子が派遣され、中国に対等外交を求め、これに成功した。
- 608年の第3回・遣隋使では裴世清の帰国に合わせて小野妹子が再び隋へ行った。
そして618年になると隋は滅亡してしまい、遣隋使の歴史は幕を下ろします。
その後、新たに中国に誕生した「唐」に対して、日本は遣唐使を派遣していくことになるのです。
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