この記事では、日本史の重要史料『高句麗好太王碑文』を丁寧に超わかりやすく解説していきます。
好太王碑の中身を読み解くにあたっては、鉄資源の確保と乗馬の風習の導入がポイントになってきます。
高句麗好太王碑文の概要
高句麗好太王碑文は、文字史料の乏しい4世紀のヤマト政権を知るための貴重な手がかりです。一言で言うと「好太王(広開土王)がいかに偉かったか」を記した碑文です。
好太王の子である長寿王によって建てられたもので、かつての高句麗の首都である丸都城にあります。現在の中国・吉林省です。
結局、好太王碑文は朝鮮と中国のどっちにあるの?
当時は朝鮮だった地域が今は中国の一部になっているんだね。
大学入試では「中国・吉林省」も出題されるから要注意だよ!
4世紀の朝鮮半島情勢と鉄資源の確保
まず地図を確認していきましょう。ヤマト政権は大陸の資源や進んだ技術を導入するために、下図の加羅と呼ばれる地域と早くから密接な関係を結んでいました。
ところが4世紀半ばになると高句麗が南下政策を開始した。こうした情勢を踏まえ、ヤマト政権は加羅の利権を守るために朝鮮半島に軍隊を送ります。鉄資源を手に入れることが大きな理由だったようです。
そんなに鉄が大事なの?
鉄がないと武器を作れないよ。そして武器がないとヤマト政権は勢力を拡大できない。
だから鉄資源の確保のために朝鮮半島の利権をどうしても守りたかったんだね。
当時、鉄は貴重で、武器の材料だけではなく農具としても重宝されていました。卑弥呼の時代は宗教的権威によって勢力を拡大していましたが、4世紀頃にヤマト政権が成立すると武力で国内の統一を進めることが重要視されるようになり、武器の材料である鉄の確保は重要なテーマだったわけです。
それでは早速、好太王碑文の内容を確認していきましょう。
好太王碑文の内容を簡単にわかりやすく解説
百残、新羅は、旧これ属民にして、由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年を以て、来りて海を渡り、百残・■■・■羅を破り、以て臣民と為す。…倭寇潰敗、惨殺無数なり。
現代語訳百済や新羅は元々高句麗の支配下にあって以前から高句麗に定期的に挨拶に来ていた。しかし倭が391年に海を渡って百済・新羅を攻め服属させた。しかし(好太王に)倭の侵略軍は破れ多くの死者を出した。「百残」とは百済のことです。「百残」というフレーズは好太王碑文に独自なものなので、このフレーズから史料名を判断したいところです。
また、「辛卯の年」とは西暦391年のことです。これは重要な年号ですよ!
なお■の部分は削れてしまって読み取れない箇所です。
最後の「倭寇潰敗、惨殺無数なり」とは、好太王の活躍により倭は敗北し多くの死者をだしたという意味です。
騎馬の導入
高句麗に負けてしまった日本ですが、タダでは帰りません。高句麗の騎馬民族部隊との交戦で乗馬の風習を学び、これを日本に持ち帰ります。
その結果、日本国内でも馬を戦争に応用する知識が広まり、日本の国家統一を促進します。
好太王碑文に関する一問一答!5題
ここからは一問一答で好太王碑文の知識を定着させていきましょう。試験対策に、是非ご活用ください。
1.4世紀末から5世紀の初め頃、朝鮮半島ではヤマト政権が侵入し、(①)と戦った。414年に建てられた(①)の好太王碑文には、その状況が記されている。[新潟大]
2.好太王碑文にある「百残」とは( )のことと考えられる。
3.好太王の業績を示す碑文が高句麗の都のあった( )に建てられた。[上智大・改題]
4.高句麗好太王碑文を建てた広開土王の子は誰か?[立教大]
5.好太王碑にある「辛卯の年」とは西暦何年か?[立命館大・改題]
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