この記事では、「皇極天皇はなぜ斉明天皇として重祚したのか?」について、簡単にわかりやすく解説しています。
結論から言えば、皇極天皇の重祚には、中大兄皇子の意思が大きく反映されています。
ここから、その内容を見ていきましょう。
皇極天皇と乙巳の変
642年~645年までの3年間、天皇の地位にいたのが皇極天皇です。
女性の天皇ですね。中大兄皇子のお母さんです。
しかし645年に乙巳の変で蘇我氏が打倒されると、大化の改新が起こり、天皇も交代することになります。
孝徳天皇の治世
皇極天皇に代わって天皇の地位についたのは孝徳天皇です。
新政府の皇太子となった中大兄皇子と孝徳天皇は最初は仲良くしていましたが、だんだん対立を深めていきます。
斉明天皇の重祚
このような対立をきっかけに、中大兄皇子は自分の母である皇極天皇を斉明天皇として重祚させます。重祚とは同じ人物が再び皇位につくことですね。
皇極天皇の重祚には、中大兄皇子の意思が大きく反映されたんですね。
斉明天皇は、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の残党の要請で自ら大軍を率いて朝鮮半島に向かいますが、途中の九州・筑紫の地で死没してしまいます。
中大兄皇子の称制
これ以後、中大兄皇子が皇太子のまま政治を行うことになります。このように、天皇が空位のまま皇太子・皇后などが変わりに政治を行う事を称制といいます。
(過去に称制が行われた例は多くありません。主には、この中大兄皇子の例と、鸕野讃良皇女(持統天皇)の例がある程度です。)
そして663年には、中大兄皇子が朝廷軍を朝鮮半島に派遣し白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。
なぜ中大兄皇子がすぐに天皇に即位せず皇太子のまま称制を行ったのか?については、諸説あるためはっきりとしていません。
朝鮮半島での戦い、そして敗北、その後の様々な改革など山積する課題に対応するため実務に集中しなければならず、そのような時に天皇に即位するのは望ましくない、と考えていたのかもしれません。
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