645年に起きた乙巳の変は、大化の改新のスタート地点となるクーデター事件です。その背景には、唐の膨張という東アジアの大きな転換がありました。
この記事では、「乙巳の変」を徹底的にわかりやすく解説していますので、ぜひ参考にしてください。
7世紀の東アジア情勢
「乙巳の変はなぜ起きたのか?」これを理解するには、まずは7世紀の東アジア情勢をおさえておく必要があります。
唐の強大化
東アジアってどこ?
東アジアとは中国から朝鮮半島にかけての地域です。中国では7世紀初頭に隋が滅亡し、618年に唐が中国を統一します。
隋は高句麗との戦争に失敗しますが、唐はとにかく強い。そんな唐も高句麗に戦争をしかけます。その結果、朝鮮半島は非常に緊張します。
中央集権化の必要性
強国である唐の影響は日本にも及ぶ。日本も唐にならって律令制度を整えて、急いで中央集権化を進める必要が出てきたのです。
蘇我氏の専横
早期に中央集権化をはかり、日本の国力を充実させないといけない。そんな中、中央集権化の足かせになったのが蘇我氏の権力独占です。これを蘇我氏の専横といいます。
ちなみに、この頃の蘇我氏は蘇我蝦夷と蘇我入鹿です。蘇我蝦夷がお父さんで、息子が蘇我入鹿です。
山背大兄王を滅ぼす
皇極天皇の治世、蘇我氏は聖徳太子(厩戸王)の子供で、非常に有能だと評判だった山背大兄王を自殺に追い込んでしまいます。
山背大兄王は時期皇位継承者として最有力候補であったわけですが、蘇我氏としては有能な人物に天皇になられてしまうと権力を失いかねない。そのため山背大兄王を自殺に追い込んで滅ぼしたわけです。
乙巳の変
このように、中央集権化の邪魔になっていた蘇我氏を滅ぼした事件こそが乙巳の変です。
つまり、蘇我氏を滅ぼして大化の改新を行い、さらには唐のように律令を整え、日本の中央集権化を達成する必要があったわけです。
乙巳の変では中大兄皇子が中臣鎌足と蘇我倉山田石川麻呂の協力を得て、蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼします。
ちなみに中大兄皇子と中臣鎌足は、遣隋使から帰ってきた南淵請安の塾で学んだ学友です。
また、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏一族なのに中大兄皇子側に協力してくれた(笑)。
つまり645年の乙巳の変は、大化の改新の出発点となったクーデター事件だったのです。
乙巳の変後
蘇我氏が滅亡したことをきっかけに人事も刷新されます。
孝徳天皇の即位
まず権力は蘇我氏から中大兄皇子に移ります。
そこで中大兄皇子は軽皇子を孝徳天皇として即位させます。中大兄皇子は自ら天皇に即位することはせず皇太子として実権を握ります。
「皇太子」という立場の方が自分のしたい政治を柔軟に行えたからだと言われています。
大化の改新のメンバーを発足
また、左大臣には阿倍内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が、内臣には中臣鎌足が就任します。
さらに、遣隋使で隋・唐に学んだ留学生・留学僧であった、高向玄理と旻が国博士というブレーン的な地位に就きます。
このメンバーで行われた中央集権化のための政治改革が大化の改新です。
645年の乙巳の変の翌年(646年元旦)には改新の詔が発布され、いよいよ大化の改新と呼ばれる政治改革が本格的に実施されることになります。
さて、ここからは一問一答で乙巳の変について確認していきましょう。
一問一答!乙巳の変の重要用語
余裕があったら用語も暗記すると理解が深まるよ!
「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。
1.推古天皇が死去した時、田村皇子や厩戸王の子である( )らが、有力な皇位継承者として存在していた。[立教大]
2.643年、蘇我蝦夷の子である蘇我入鹿により斑鳩宮で滅ぼされた、聖徳太子の子は誰か?
3.(①)年、中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺害した事件を(②)という。
4.中大兄皇子らによって蘇我氏が滅ぼされると、皇極天皇に代わり( )天皇が即位した。
5.中大兄皇子は自らは天皇にはならず( )として実権を握った。
6.乙巳の変後、中大兄皇子は皇太子の位に就き、(①)は内臣、(②)は左大臣、(③)は右大臣になった。また国博士には高向玄理と旻が就任した。
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