この記事では、仏教の公伝の戊午説と壬申説について、徹底的に分かりやすく解説します。
結論から言えば、仏教公伝の年代は、上宮聖徳法王帝説と元興寺縁起によれば538年(戊午説)ですが、日本書紀の記述では552年(壬申説)となっています。
ここから、その詳細を確認していきましょう。
仏教の公伝には戊午説と壬申説の2種類がある!
古墳時代の後期、欽明天皇の時代に、百済の聖明王から日本に仏教が伝わりました。
これが「仏教の公伝」です。
仏教の公伝には戊午説(538年説)と壬申説(552年説)の2つの説があります。
戊午説と壬申説のどちらも入試で問われることがあるので、「午後にご参拝」と覚えます。
語呂合わせを使えるので、年号の暗記は楽勝ですね。
戊午説とは?
上宮聖徳法王帝説を信じれば、「戊午の年(538年)」に、百済の聖明王が日本に仏教を伝えたことになります。
ここで、上宮聖徳法王帝説の史料を確認しておきましょう。
志癸嶋天皇の御世に、戊午の年の十月十二日に、白斉の国の主明王、始めて仏の像経教あわせて僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興し隆えしむ。
【現代語訳】
欽明天皇の治世に、538年の10月12日に、百済の国の聖明王が、はじめて仏教・経文とともに、僧らを送ってきた。そこで欽明天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて仏教を隆興させた。
「志癸嶋天皇」とは欽明天皇のことです。「戊午の年」は、戊午説の538年。「白斉」は百済のことで、「明王」は聖明王を指します。
百済の聖明王は、仏像・経典だけではなく、僧も派遣してきたようですね。そして欽明天皇は、「蘇我稲目に仏教を普及させるよう命じた」とあります。
上宮聖徳法王帝説の解説
史実でも欽明天皇のときの大臣は、蘇我稲目です。
蘇我稲目は仏教伝来に際し、崇仏派(仏教に賛成する勢力)の中心人物として、排仏派(仏教に反対する勢力)の物部尾輿と対立します(崇仏論争)。
史料本文の引用は割愛しますが、元興寺縁起という文献にも、538年(戊午の年)に「仏教が伝来した」という記録があります。
『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺縁起』の方が、壬申説(552年説)を支持する『日本書紀』よりも古い史料です。
また、当時の朝鮮半島の政治動向との矛盾も少ないため、現在では戊午説(538年説)の方が有力視されています。
壬申説とは?
一方『日本書紀』は、552年の壬申説を主張します。
入試にもしばしば出題される史料なので、『日本書紀』の本文を確認しておきましょう。
(欽明天皇十三年)冬十月、百済の聖明王、……釈迦仏の金銅像一軀、幡蓋若干、経論若干巻を献る。……(天皇)乃ち群臣に歴問して曰く、「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曾て有らず。礼ふべきや否や」と。蘇我大臣稲目宿禰奏して曰さく、「西蕃の諸国、一に皆礼ふ。豊秋大和、豈独り背かむや」と。
【現代語訳】
552年の冬10月に、百済の聖明王が釈迦仏の金銅像一体などを献上してきた。欽明天皇は群臣ひとりひとりに、「百済が献上した仏の姿は、美しくおごそかなもので、今までには全くなかったものだ。礼拝すべきか否か」とお尋ねになった。大臣の蘇我稲目が天皇に申し上げるには、「西の隣国の諸国は皆、礼拝しております。日本だけが背くべきではありますまい」と。
この『日本書紀』の抜粋には続きがあり、物部氏と中臣氏は、「外国の神を崇拝すると、日本の神々から怒りを買うだろう」と、仏教の導入に反対しています。
蘇我氏が仏教の導入に積極的な一方、物部氏が仏教に反対するのは当然です。
蘇我氏の家来は、仏教を信仰する渡来人が中心。一方、物部氏の家来は、神道の儀式を担当している中臣氏です。
こうした背景から、蘇我稲目と物部尾輿は、崇仏論争という形で対立します。
戊午説と壬申説に関する一問一答!
1.「戊午の年」とは西暦何年か?[同志社大]
2.( )や元興寺縁起によれば仏教の公伝は538年のことである。
3.百済の(①)王から伝えられた仏教をめぐり、(②)天皇の下で、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿が対立した。
まとめ:戊午説と壬申説のポイント
仏教の公伝について、入試頻出の史料も交えて解説してきました。以下にポイントをまとめます。
- 百済の聖明王が、欽明天皇の時代に、日本に仏教を伝えた。
- 仏教公伝の年代は、上宮聖徳法王帝説と元興寺縁起によれば538年(戊午説)だが、日本書紀の記述では552年(壬申説)になっている。
- 戊午説(538年)の方が有力ではあるが、入試ではどちらも問われる可能性があるので、「午後に/ご参拝」と語呂合わせで覚える。
- 崇仏派の蘇我稲目と排仏派の物部尾輿は、仏教をめぐって争った。この争いを崇仏論争という。
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