「吉備真備」「玄昉」「阿倍仲麻呂」は同じ船で遣唐使に行った仲です。
阿倍仲麻呂は、日本に帰国したい気持ちはあったものの、不運にも帰国できず、中国の官僚として生涯を過ごします。
一方、命からがら帰国に成功した吉備真備と玄昉は、その才能と唐で学んだ知識を買われ、橘諸兄の側近として手腕をふるいました。
では、吉備真備と玄昉は、それぞれどのような人物だったのでしょうか?
この記事では、天才・吉備真備の生涯を追いながら、玄昉との違いも含めて解説していきます!
吉備真備とは?
吉備真備は現在の岡山県の生まれで、下道氏の出自です。
下道氏はお世辞にも有力な氏族とは言えません。
そんな家柄に生まれた真備ですが、717年の遣唐使に22歳の若さで抜擢されます。
異例の大出世で遣唐使に!
元々、秀才中の秀才だった真備ではありますが、その優秀さを加味しても遣唐使への抜擢は異例の大出世です。
真備は「天才」という言葉では足りないほどに、優秀な人物だったと言えますね。
余談になりますが、真備と同じ船で入唐した、阿倍仲麻呂も「唐の玄宗皇帝がその才を惜しんだ」と伝えられる人物ですから717年の遣唐使は極めて優秀な人物が多いですね。
同時に、吉備真備もまた、「唐の玄宗皇帝が才を惜しんだ逸材」だと言い伝えられています。
日本への帰国後
優秀過ぎるほどに優秀な吉備真備ですから、734年の帰国後、橘諸兄政権で、「ブレーン」として重用されます。
吉備真備はその才を生かし、橘諸兄や聖武天皇を支えたわけですね。
このとき、吉備真備と共に橘諸兄が目をつけた留学僧が、玄昉なんです。
玄昉も吉備真備と同様に、橘諸兄・聖武天皇を支えるブレーンとして活躍します。
藤原広嗣の乱
定かではありませんが、吉備真備や玄昉らの遣唐使が原因で、中国から日本に天然痘を持ち込んでしまったという説があります。
天然痘の大流行で、日本の人口の約3分の1が失われたとも試算されていますが、聖武天皇の元で権力をふるった藤原四子も天然痘で全員亡くなってしまったのです。
藤原四子の死後、聖武天皇の元で政治の実権を握り、吉備真備と玄昉をブレーンとして重用したのは橘諸兄でしたね。
しかし、式家出身の藤原広嗣は、ろくな家柄の出ではない、吉備真備の出世に猛反発。藤原氏の復権も企図してか、太宰府で反乱を起こします。
この反乱を、藤原広嗣の乱(740年)といいます。ですが、藤原広嗣の乱はすぐに鎮圧。
反乱の後、吉備真備は後の孝謙天皇である、安倍内親王の教育係に任命されます。
藤原仲麻呂の台頭
安倍内親王が女性天皇の孝謙天皇として即位すると、橘諸兄にかわって藤原仲麻呂が政治の実権を握ります。
橘諸兄の失墜により吉備真備は地方に左遷され、玄昉も筑紫観世音寺別当に左遷。
玄昉は左遷された翌年の、746年に死去します。
ところが、藤原仲麻呂が淳仁天皇を擁立し、天皇の地位を追われた孝謙上皇と対立するようになると、孝謙上皇は自分の教育係であった吉備真備を頼るのです。
藤原仲麻呂と孝謙上皇が戦った「恵美押勝の乱」では、吉備真備は孝謙上皇の軍師として、唐で張良(劉邦の軍師)に学んだ兵法を用いて活躍します。
恵美押勝(藤原仲麻呂)が、流矢に当たってしまい敗死すると、淳仁天皇は淡路に流されます。
恵美押勝の乱に勝利した孝謙上皇は、重祚し称徳天皇として即位。
(※重祚とは安倍内親王が「孝謙天皇→孝謙上皇→称徳天皇」となったように、同じ人が2回天皇に即位すること。)
再度天皇に即位したことで、称徳天皇が寵愛していた僧の道鏡の政治的権力がますます高まりました。
道鏡が政治の実権を握る一方で、恵美押勝の乱で活躍した吉備真備は、地方豪族としては異例中の異例である右大臣にまで出世するのです。
まとめ:吉備真備と玄昉の違い
- 吉備真備は異例の大出世に成功した天才!
- 玄昉は遣唐使で仏教を学んで帰った僧!
吉備真備と玄昉の大きな違いとなったのは、やはり橘諸兄が権力を失った後の命運です。
唐に留学し、橘諸兄政権でブレーンとして活躍し、橘諸兄の失墜で左遷されるところまでは2人とも同じですよね。
ところが、安倍内親王が孝謙上皇だった時に、吉備真備は再びブレーンとして中央に戻ります。
一方、玄昉は左遷の翌年に死去してしまいます。
地方豪族の出身でありながら、称徳天皇の元で右大臣にまで昇進した吉備真備は、古代史の英雄とも言える人物だったのですね。
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