倭の五王と『宋書』倭国伝の史料について徹底的にわかりやすく解説していきます!
この記事を読めば倭の五王・『宋書』倭国伝を完全習得できるようになります。
『宋書』倭国伝とは?倭の五王とは?
まず「宋書」とは、沈約によって編纂された中国南朝の宋の約60年間の歴史書です。
この「宋書」の一部に当時の日本についての記述があり、これが『宋書』倭国伝と呼ばれています。
『宋書』倭国伝には、5世紀初めから約1世紀の間、倭の五王(讃・珍・済・興・武)が中国の南朝に朝貢した様子が記されています。
ちなみに、「讃→珍→済→興→武」とは倭の五王が南朝に朝貢した順番です。
倭の五王のうち済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇のことを指していると考えられています。
(倭の五王の「讃・珍・済・興・武」という名称は、中国側に通りが良いようにつけられた名前で、天皇家の系図にあるものとは別です。)
興と武は兄弟で、2人の父親にあたるのが済です。
武は雄略天皇でもありワカタケル大王でもある!江田船山古墳出土鉄刀銘や稲荷山古墳出土鉄剣銘には「獲加多支鹵大王」と書かれている!
つまり『宋書』倭国伝には、倭の五王(ヤマト政権の大王たち)が、中国に認めてもらい朝鮮半島に対する影響力を強めて、国(ヤマト政権)を発展させようとした経緯が記されているのです。
それでは、ここからは『宋書』倭国伝の本文を確認していきましょう!
『宋書』倭国伝の内容
『宋書』倭国伝①
…興死して弟武立つ。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称す。
冒頭の「興死して弟武立つ」とは「倭の五王」の1人である興が死んで武が新たなヤマト政権の大王になったという意味です。武は雄略天皇でしたね。
そして武は自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称したと書かれています。
武はこれらの地域の支配権を主張したのです。
『宋書』倭国伝②:倭王武の上表文
順帝の昇明二年、使を遣はして表を上る。曰く「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を擐き山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。…。」
現代語訳西暦478年、武は使者を通じて文章で次のように述べた。私の国は中国から遠いところにあって、私の祖先は自ら甲冑を着て、山を越え川を渡り、各地で戦って休む暇もありませんでした。東では毛人の国を55国征服し、西では衆夷を66国征服し、海をわたって朝鮮半島の95国を平定しました。…。
この部分は「倭王武の上表文」と呼ばれる箇所で、要は「武」から、宋の皇帝である「順帝」へ宛てた手紙です。
この「倭王武の上表文」には、ヤマト政権がいかに軍事的に優れた成果を残したのかが記されています。
冒頭の「順帝の昇明二年」とは西暦478年なので、5世紀のことですね。
つまり、『宋書』倭国伝は4世紀前後にできたヤマト政権の成立過程を知ることのできる貴重な文献史料というわけです。
4世紀は、「謎の4世紀」と呼ばれるほど史料がない時代です。5世紀のこの史料(『宋書』倭国伝)でようやくヤマト政権の状況が読み取れるのですね。
『宋書』倭国伝③:安東大将軍への任命
詔して、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍倭王に除す。
順帝は武(雄略天皇)を「安東大将軍」として認めています。朝貢がうまくいったわけですね。
ここでポイントになってくるのは、武は最初「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍」を自称していたのですが、順帝が認めたのは「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍」です。
この2つの文をよく見比べてみると、武は自らを7国の安東大将軍と名乗っていますが、順帝からは6国の安東大将軍に任命されていることが分かります。
1国減っているわけですね。減っている国は百済です。百済は武よりも以前に中国に朝貢し将軍として認められていたので、武は百済の将軍の地位を認めてもらえなかったのです!
ここまでで、『宋書』倭国伝の解説を終わります。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
コメント