この記事では、湿田と乾田の特色・違いを徹底的に分かりやすく解説しています。
記事の最後には一問一答形式の問題も設置しているので、腕試しにぜひご活用ください。
湿田と乾田の違いとは?
縄文時代の最後の段階になると米作りが始まりました。縄文時代・晩期に米作りをしていたことは、佐賀県の菜畑遺跡や福岡県の板付遺跡の発掘調査から明らかになっています。そして弥生時代に入ると水稲耕作が本格化します。
湿田とは
弥生時代の前期には湿田で水稲耕作が行われます。湿田は川に近い低湿地で日当たりが悪く生産性の低い田んぼでした。
そのような湿田で水稲耕作が行われたのは、弥生時代の前期頃ではまだまだ鉄製農具が少なく、水のないところに水を運ぶ施設(灌漑施設/かんがいしせつ)を作るのが困難だったためです。
石包丁で穂首刈り
弥生時代前期の湿田を中心とした水稲耕作では、磨製石器の石包丁で穂首刈りが行われています。
湿田=直播
また湿田では、土に直接モミを播く直播が一般的でした。
乾田とは
弥生時代の後期になると鉄製農具が普及し、灌漑施設を作ることができるようになりました。あえて生産性の低い湿田で水稲耕作を行わなくても、条件の良い土地まで水を引けるようになったのです。
その結果広まったのが、湿田よりも生産性の高い乾田です。
「石包丁」から鉄製の「鎌」へ
弥生時代前期には石包丁で穂首刈りをしていましたが、弥生時代の中期以降になると鉄製農具が広まっていったので、収穫にも鎌が使われるようになりました。
「直播」から「田植え」へ
また湿田では直播が行われていましたが、乾田では田植えが行われる点がポイントです。
湿田と乾田のまとめ
試験に出る!湿田と乾田に関する一問一答
大学受験日本史の過去問を中心に一問一答形式の練習問題を用意しました。歴史能力検定にも役立つ内容です。ぜひ参考にしてみてください。
なお、「+解答解説」ボタンを押すと解説と答えを確認することができます。
1.佐賀県唐津市の( )遺跡からは、縄文時代晩期の土器とともに水田跡が見つかり、大陸から水稲耕作が伝わってきたことが明らかになった。
2.弥生時代前期の稲作は地下水位の高い( )田で行われていた。
3.稲の栽培で利用されたのは主に低湿地であったが、時代が下ると灌漑・排水設備の整備が進み、( )の開発が盛んになった。
4.弥生時代の水稲耕作は、田植えやモミの直播をし、( )による穂首刈りで収穫するのが一般的であった。
コメント
コメント一覧 (2件)
間違いだったらすいません。湿田では直播、乾田では田植えと記載されていたが、途中、反対になってるところが見られました。
プーさん 様
このたびは、記事の誤りをご指摘頂き、誠にありがとうございました。
ご指摘の通り、湿田=直播、乾田=田植え、とすべきところを、誤っている所がありました。
すぐに修正を反映させましたのでご確認ください。
このたびは、ご指摘頂き本当にありがとうございました。深く感謝申し上げます。