この記事では、加墾禁止令(墾田禁止令)を簡単に分かりやすく解説します。
加墾禁止令の史料と現代語訳も付けているので、ぜひ参考にしてください。
加墾禁止令とは
加墾禁止令(墾田禁止令ともいう)は、奈良時代である765年の道鏡政権の時に出された法律です。
これは、「寺院と庶民は開墾を続けても良いが、他の貴族や有力者の開墾を禁止する」というものでした。
加墾禁止令が施工された背景
この加墾禁止令は、それより以前に出された墾田永年私財法からの流れで考える必要があります。
(※墾田永年私財法については、コチラの記事で詳しく解説しています。)
743年に墾田永年私財法が出されたことで、日本の歴史上初めて開墾地の永久私有が認められました。
しかし、開墾地の私有が認められたといっても、墾田の所有面積は身分(位階)に応じて厳しく制限されていました。
このことから、「この墾田永年私財法は有力者のみが得をする制度だ」として見直されたのが加墾禁止令なのです。
しかしこの加墾禁止令は、貧しい農民だけでなく、寺院も開墾を禁止されていません。
それは、時の政権を握っていた道鏡が僧であり、宗教勢力に有利な政策とするためだった、という説もあります。
これらのことから、次の光仁天皇の時代になり権力者が道鏡から藤原百川に移ると、772年にはまた元の墾田永年私財法に戻り、開墾が可能になりました。
この際、743年に墾田永年私財法が出されたときには存在していた、身分による開墾制限も廃止されています。
道鏡は、女性である称徳天皇から寵愛を受けていましたが、その称徳天皇が没し後ろ盾を失うと、道鏡は770年に左遷されてしまいます。
この加墾禁止令の廃止ののち、再び墾田永年私財法による土地政策が行われた結果、荘園と呼ばれる貴族・寺社の私有地が各地に作られるようになります。
こうして、公地公民制の原則が崩れていき、その荘園を財政基盤とした藤原氏が権力を握る平安時代へと移り変わっていくのです。
加墾禁止令について書かれた史料と現代語訳
次に、加墾禁止令について書かれた史料と現代語訳を見ていきます。
入試でも頻出な重要項目ですので、確認していきましょう!
(天平神護元年三月)丙申、勅すらく、「今聞く、墾田は天平十五年の格に縁るに、今より以後は、任に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉くに永年取る莫れ、と。是に由りて、天下の諸人競ひて墾田を為し、勢力の家は百姓を駈役し、貧窮の百姓は自存するに暇無し。今より以後は、一切禁断して加墾せしむること勿れ。但し寺は、先来の定地開墾の次は禁ずる限に在らず。又、当土の百姓、一、二町はまた宜しくこれを許すべし。……」と。
『続日本紀』
【現代語訳】(765年3月)5日、(天皇が)お命じになることには、「聞くところによると、墾田は墾田永年私財法に従い、“今後は、私財として、三世一身という制限なく、すべて永久に収公されない”とした。このため、人々は競って開墾をするようになったことで、勢力のある家は人々を酷使し、貧しい人々は生計を立てる余裕がない状態である。よって今後は、これ以上の開墾を一切禁止する。ただし寺院は、以前から定められている土地の開墾を禁止しない。また、その土地の人々が、一~二町を開墾することも許可する。……」と。
史料の中の「天平十五年の格」というのは、「墾田永年私財法」のことですね!
この加墾禁止令の史料は、過去に早稲田大学やセンター試験でも出題されていますので、しっかりと抑えておきましょう。
「加墾禁止令」の一問一答!
「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。
1.加墾禁止令が発布された当時の天皇は( )である。[日本大:改題]
2.加墾禁止令が発布された当時の政権担当者は( )である。[近畿大:改題]
3.「天平十五年の格」とは( )である。[名古屋大]
4.加墾禁止令についても記載のある、奈良時代の基本史料は何か?[京都大:改題]
4.加墾禁止令の発布以後のできごととして正しいものはどれか?[早稲田大:改題]
①藤原仲麻呂の乱が起きた。 ②養老律令が施工された。 ③光明子が亡くなった。 ④鑑真が来朝した。 ⑤伊治呰麻呂が乱を起こした。
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