磐井の乱といえば、古墳時代(3世紀後半~6世紀末)における、最大の内乱です。
古墳時代に起きた戦争としては、最も重要なものと言えます。
この記事では、筑紫の国造だった磐井の反乱事件を、簡単にわかりやすく解説していきます!
「磐井の乱」以前の東アジア情勢
磐井の乱と東アジア情勢は密接な関係にあるので、まずは「磐井の乱」以前の東アジア情勢を確認しましょう。
高句麗が強大化し南下政策をとると、高句麗に押し出されるかのように「百済」「新羅」も、伽耶(加耶、加羅とも)方面へ南下します。
ヤマト政権と百済は友好的な関係でした。一方で、新羅はヤマト政権とも百済とも敵対しています。
ここで押さえておきたいのは、次の2点です。
任那と周辺国の関係
- ヤマト政権は、伽耶諸国を「任那」と呼び、この地域と深い関係にあった
- 百済も「任那」に強い影響力を持ち、この地域と深い関係にあった
大伴金村の外交
512年、百済はヤマト政権に対して、任那4県(任那の一部)の領有権を承認するよう求めます。
大連の地位で外交を担当していた大伴金村は、百済の要求を受け入れます。
こうして任那4県は、百済に割譲されることになったのです。
大伴金村が任那4県の割譲をOKした裏には、「百済から金村への賄賂があったのでは!?」との疑惑があります。
実際、百済は任那4県の割譲の見返りに五経博士を日本に派遣。儒教を伝えています。
とはいえ、大伴金村が本当に賄賂を受け取ったかどうかは不明です。
ヤマト政権の奪還作戦
527年、任那東部の2県が、新羅に奪われてしまいます。
新羅に奪われた地域を奪還するため、継体天皇は近江毛野に6万の兵を与え、朝鮮半島に向かわせます。
ヤマト政権による、任那東部の奪還作戦です。
磐井の乱
近江毛野は6万の兵を率いて、一路、朝鮮半島を目指します。
そもそも磐井をはじめとする九州の諸豪族は、大陸との交易権をめぐって、朝廷に不満を抱いていました。
一方、日本が兵を起こしたことを察知した新羅は、磐井に賄賂を送り、近江毛野の軍勢を足止めするよう説得。
これに応じた磐井は、近江毛野と交戦し、進軍を妨害したのです。
このとき、磐井は近江毛野に対し「今でこそ毛野は天皇の使者となっているが、昔は仲間として肩を並べ肘を触れ合わせながら同じ器で食事をしたものだ。自分を従わせることなどできないだろう。」と言ったとされています。
磐井の乱の鎮圧
磐井の反乱を知ったヤマト政権は、大伴金村の進言で、物部麁鹿火を将軍に任命します。
翌528年、物部麁鹿火は、筑紫の地で磐井と交戦。
1年半にわたる壮絶な戦いの未、物部麁鹿火が勝利し、磐井を斬ります。
529年、磐井の子の筑紫君葛子は、連帯責任で殺されるのを恐れて、領地を献上。
磐井の領地だった場所には、ヤマト政権の直轄地を意味する、屯倉が設置されます。
これが527年に起きた、磐井の乱です。
磐井の乱は、結果的にヤマト政権による地方支配の強化につながったと言えます。
まとめ:磐井の乱のポイント
この記事のまとめ
- 527年:新羅が任那東部を奪う
- 同527年:新羅の勧めで九州の豪族だった磐井が反乱を起こし、近江毛野率いる朝廷軍と激突
- 528年:物部麁鹿火が筑紫で磐井と交戦
- 529年:磐井の乱を鎮圧、磐井の領土には屯倉が設置される
【※補足】
この記事の冒頭で、「磐井の乱は古墳時代の事件」と記載しましたが、古墳時代の終末期は飛鳥時代の草創期と重なっており、磐井の乱も飛鳥時代の中で解説される場合もあります。
磐井の乱に関する一問一答!5題
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1.磐井の乱が起きたのは西暦何年か?
2.磐井の乱が起きた西暦527年は( )天皇の治世である。
3.527年、ヤマト政権は任那の「復興」を目指して大軍を九州に送り込んだが( )はひそかに新羅と結び、その動きを妨害した。[青山学院大]
4.朝鮮半島の新羅と結びヤマト政権に反乱を起こした磐井を鎮圧したのは誰か?
5.磐井の乱後、筑紫国には大王の直轄地である( )が設置された。
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