徳政相論を分かりやすく解説!【桓武天皇の前で行われた政策論争】

徳政相論

徳政相論とくせいそうろんとは、簡単に言えば、人々を疲弊させた「平安京の造営」と「東北地方の征服」の2大事業について、中止が決定された議論のことです。

その背景から、詳しい内容を見ていきましょう!

目次

桓武天皇の2大事業

25年という長いあいだ治世を行った桓武かんむ天皇は、2つの大きな事業を行いました

1つは、平城京へいじょうきょうに代わる新たなみやことして、京都に平安京へいあんきょうを造ったこと。

そしてもう1つは、東北地方の蝦夷えみしの征服です。

①平安京の造営

桓武天皇の治世から少し過去に遡った奈良時代には、聖武天皇が鎮護国家思想ちんごこっかしそうのもとに、仏教の力で国を安定させようとしました。
(※聖武天皇が仏教の力に頼った背景については、コチラの記事で詳しく解説しています。)

その結果、仏教勢力が強く政治に関与してくるようになり、負の影響が目立つようになります。

そういった関係を断ち切るため、桓武天皇は仏教勢力との関わりが小さい新たな地域に都を造ろうとしました。

まずは長岡京ながおかきょうに遷都しますが、長岡京造営の責任者である藤原種継たねつぐが暗殺されたことにより、さらに場所を変え平安京に遷都します。

ここからが、平安時代の始まりですね。

ただ、平安京へ遷都したといっても、巨大な都が一瞬で完成するわけはありません。

桓武天皇が平安京に移ってからも、平安京の造都ぞうと作業は続けられていきます。

この造都作業は、莫大な時間と費用が必要であり、一般庶民は労働力として駆り出されることになります。

過酷な労働と重い税負担に、国民たちは苦しみます。

②東北地方の制圧

東北地方には、蝦夷えみしと呼ばれる、朝廷に従わない人々が住んでいました。

蝦夷と政府は、桓武天皇の治世以前から戦闘を繰り返している状態でした。

そこで、蝦夷を制圧し服従させるために、坂上さかのうえの田村麻呂たむらまろ征夷せいい大将軍たいしょうぐんに任命され、10万の大軍と共に派遣されます

坂上田村麻呂は、蝦夷のリーダー阿弖流為あてるいを服属させることには成功するものの、蝦夷の反発を完全に抑えるには至りませんでした。

2大事業の見直しを議論した徳政相論

これらみやこの造営と軍事の2事業は莫大な費用がかかり、民衆の生活を圧迫したため、農民たちは十分に耕作に専念できず、税収が不安定化しました。

そこで、この2つの事業を続けるべきか、中止すべきか議論することになりました。これが、徳政相論です。

この中で、重臣の藤原ふじわらの緒嗣おつぐ(32歳)と菅野すがのの真道まみち(65歳)の意見が、真っ向から対立します。

若い藤原緒嗣は、柔軟な発想で「今、国民が苦しんでいるのは、都の造営事業と東北地方の平定にあるので、これらを辞めるべし!」と主張します。

一方、長老保守派の菅野真道は、「途中で2大事業を中止すれば、天皇の権威に傷がつく。あくまでこれらの事業は完遂すべきだ!」と主張し譲りません。

この議論の結果、桓武天皇は藤原緒嗣の意見を採用し、2つの大事業の中止を決定します。

会議に列席していた高官たちは、桓武天皇のこの決断に驚き、とても感心しました。

このことから、桓武天皇は国民に寄り添った徳政を行った人物、というイメージで語られることが多いです。

この徳政相論により平安京の造営が中断されたことで、西南区画の右京うきょうは未完成のままとなり、衰退していきます。

※発展学習

平城京からの遷都は、仏教勢力との関わりを断つ以外にも、

①桓武天皇が、自分の皇統の都を造りたかったこと
(桓武天皇の父である光仁天皇から天智系の天皇になった。)

②京都は、琵琶湖の水運を利用できるなど、交通の要地であったこと

も理由になったとされています。

徳政相論について書かれた史料と現代語訳

ここからは、徳政相論について書かれた史料と現代語訳を見ていきます。

入試でも頻出な重要項目ですので、確認していきましょう!

徳政相論

延暦えんりゃく二十四年十二月壬寅じんいんの日、中納言ちゅうなごん近衛大将このえのたいしょう三位さんみ藤原ふじわらの朝臣あそんうち麻呂まろ殿上でんじょうす。ちょく有りて参議さんぎ右衛うえ士督じのかみじゅ四位しい藤原朝臣緒嗣おつぐと参議大弁だいべんしょう四位下菅野すがの朝臣真道まみちとをして天下の徳政とくせい相論あいろんぜしむ。時に緒嗣、してはく、「方今いま、天下の苦しむ所は軍事と造作ぞうさとなり。の両事をとどめば百姓ひゃくせいやすんぜむ」と。真道、異議いぎ確執かくしつしてえてかず。みかど、緒嗣の議をしとし、即ち停廃ちょうはいに従ふ。有識者これを聞き、感嘆せざるなし。

日本後紀にほんこうき

【現代語訳】(805年12月7日)この日、藤原内麻呂は、殿上の間に仕えていた。桓武天皇の勅書が出され、藤原緒嗣と菅野真道に良い政治について討論させた。緒嗣が言うには、「いま世の中の人々が苦しんでいるのは蝦夷との戦いと平安京の造営にあります。この二つをやめれば、人々は助かるでしょう」と。真道は異議を唱え、緒嗣の意見に耳を貸さなかった。桓武天皇は、緒嗣の意見を採用し、軍事と造作を中止した。高官たちはこれを聞き、感嘆せざるを得なかった。

側近の意見が対立する中で、桓武天皇の英断があったことが伺えますね。

史料の黄色マーカー部分から、2大事業が中止となる徳政相論であることが分かります。

この徳政相論の出典は『日本後紀にほんこうき』です。『しょく日本紀にほんぎ』に続く史料ですね。難関大では、この史料名を問われることもあります。

「徳政相論」の一問一答!

「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。

1.大和国やまとのくにの平城京から山背国やましろのくに(山城国)の長岡京、平安京に遷都した天皇は?

解答解説1
正解は桓武かんむ天皇です。

2.「徳政相論」で菅野真道と論争し、意見を採用された人物は誰か?

解答解説2
正解は藤原ふじわらの緒嗣おつぐです。当時まだ32歳だった藤原緒嗣は、軍事と造都の両事業の中止を提言し、採用されました。

3.六国史りっこくしのうち『しょく日本紀にほんぎ』に続く後の時代を扱っているのは何か。[学習院大]

解答解説3
正解は日本後紀にほんこうきです。

参考文献

新詳述日本史史料集

詳説日本史史料集

日本史史料問題一問一答

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