この記事では、三世一身の法について簡単に分かりやすく解説しています。
結論から言えば、条件付きで土地の私有を認めた三世一身の法ですが、結局は失敗に終わります。
三世一身の法が施工された背景
三世一身の法は、奈良時代のうまくいかなかった土地制度の中の1つです。
財政難にあえぐ政府は、より効率的に納税させるために、まず百万町歩開墾計画を発表します。
しかし、この壮大な計画は全くうまくいきませんでした。
(※百万町歩開墾計画が失敗した理由は、コチラの記事で詳しく解説しています。)
でもそこで諦めては財政はピンチのまま。
国家運営の危機です!
そこで、財政を立て直すための次の政策として考えられたのが、この三世一身の法です。
三世一身の法の施工と失敗
これまでの口分田は、あくまで政府から貸し与えられるものであり、田んぼは自分の所有物ではありませんでした。
口分田とは6歳以上の農民に貸し与えられる田んぼのことで、農民は死ぬと国に田んぼを返さないといけない仕組みでした!
でも、結局返さないといけないなら、新しく田んぼを切り開こうとする意欲はわきませんよね。
そこで政府は、新たに開墾した土地をその農民の所有物にすれば、農民のモチベーションが上がりどんどん耕作地を拡大してくれるだろう、と考えました。
(※開墾とは、荒れ地を耕して田んぼにすることです!)
そういった考えから生まれたのが、この「三世一身の法」です。
三世一身の法では、新たに灌漑施設を設けて未開地を開墾した場合は、本人・子・孫(子・孫・曾孫とも)の3世代にわたって土地の私有が認められました。
また、旧来の灌漑施設を用いて耕地を造った場合には、本人一代に限り土地の私有が認められました。
(※灌漑施設とは、川などから人工的に水をひいてくる施設のことです。)
水田をつくるうえで最も大変なのは水路をひくことなので、水路から自分で開いた土地は三代、既存の水路を利用して開いた土地はその人一代限りの私有を認めたのです。
耕した土地が自分のものになるなら、やる気も出てきますよね!
この法は、723(養老7)年に施工されています。百万町歩開墾計画が発表された722(養老6)年の翌年ですね。
しかし、百万町歩開墾計画に続き、この三世一身の法も失敗に終わります。
それは、私有期限が近付くと農地が再び荒れるといった制度上の不具合が出てきたからです。
この失敗を受けて、続く743(天平15)年には墾田永年私財法が出され、開墾した田畑は永久に私有することができるようになります。
(※墾田永年私財法についてはコチラの記事でわかりやすく解説していますので、三世一身の法とセットで理解すると、奈良時代の土地政策の移り変わりを把握できますよ!)
三世一身の法について書かれた史料と現代語訳
次に、三世一身の法について書かれた史料と現代語訳を見ていきます。
入試でも頻出な重要項目ですので、確認していきましょう!
(養老七年四月)辛亥、太政官奏すらく、「頃者百姓漸く多くして、田池窄狭なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇を開闢かしめん。其の新たに溝池を造り、開墾を営む者有らば、多少を限らず、給ひて三世に伝へしめん。若し旧きの溝池を逐はば、其の一身に給せん」と。
『続日本紀』
【現代語訳】723年4月、太政官が天皇に次のように申し上げた。「最近百姓が増加したのに、田地が狭くて不足しています。できれば、全国に田地の開発を奨励したいと思います。新しく灌漑施設をつくって、土地を開墾した者には、面積に関わらず、三世代の間は私有を認めようと思います。また、既存の灌漑施設を利用して開墾した者には、本人一代にかぎって私有を認めようと思います。」と。
史料の赤字部分のように、三世代と一代のみに私有を認めたので、「三世一身の法」なんですね!
この法令は養老7年に出されたので、養老七年の格とも呼ばれます。
大学入試問題でも、「養老七年の格とは何か?」という問いで、三世一身の法を答えさせる問題が頻繁に出題されるので、注意してください。
「三世一身の法」の一問一答!
「+解答解説」ボタンを押すと「解説」と「答え」を確認することができます。
1.期限付きながら水田の私有を認めた法令は何か?[日本女子大:改題]
2.三世一身の法が発布されたのは西暦何年か?[関西大:改題]
3.三世一身の法は、当時「( )の格」と呼ばれていた。
①天平十五年 ②養老七年 ③大宝元年 ④神亀二年 ⑤慶雲三年
4.三世一身の法についても記載のある、奈良時代の基本史料は何か?[法政大:改題]
5.次の文章の正誤を述べよ。[センター試験(2015年度):改題]
三世一身の法では、既存の灌漑施設を利用して開墾した場合、開墾者本人一代に限って墾田の所有が認められた。
コメント