この記事では、大仏造立の詔を簡単に分かりやすく解説します。
この記事の要約:大仏造立の詔が発布された理由をサクッと解説!
簡単に言えば、相次ぐ不幸にみまわれた聖武天皇は、国家の危機をなんとかするために「仏教」に頼ったのです。
本来、仏教は修行によって悟りを開くものですが、仏様を国家救済の神とあがめて「奈良の大仏」を造らせる。
つまり聖武天皇の「困った時の神頼み」こそ、大仏造立の詔なのです。
以下では、どんな不幸が聖武天皇を襲い、どうして日本全体が危機に陥ってしまったのかを、わかりやすく解説していきます!
記事の最後には暗記用の一問一答も掲載しているので、あわせてご活用ください。
- 聖武天皇を苦しめた不幸な事件年表
- たったの5年間で4回以上も遷都!?
- 鎮護国家思想で「困った時の神頼み!?」
- 東大寺に巨大な大仏を建てよう!
- 一般庶民の反発を抑えるために起用された罪人とは!?
- 10年にも及んだ大仏造立事業
- 隠して暗記!一問一答4題
聖武天皇を襲った相次ぐ不幸
奈良時代といえば、東大寺の「奈良の大仏」ですよね。
奈良の大仏を、嫌がる民衆に無理やりつくらせたのが、聖武天皇です。
なぜ貧しい民衆を苦しめてまで、聖武天皇は奈良の大仏を建てたのか?
まずは聖武天皇の身に起きた数々の不幸の一覧を、年表形式で確認しましょう!
年表をご覧いただくだけでも、相次ぐ不幸により聖武天皇が「神頼み」にはしる理由が見えてきますね!
聖武天皇を襲った数々の不幸な事件
成人した聖武天皇が天皇に即位したときには、その前の元正天皇から続いて長屋王が政権を握っていましたが、藤原四子が政権の奪取をもくろみます。
謀反の疑いをかけることで長屋王を自殺に追い込み、権力基盤を固めた藤原四子ですが、737年に天然痘が大流行すると、相次いで死去します。
天然痘は凄まじい勢いで感染を拡大し、日本の全人口の約3分の1が亡くなったと推定されているほどです。天然痘の流行直前の734年には大地震も起きています。
大地震や謎の伝染病(天然痘)の急拡大といった国難に対応するために、聖武天皇のもとで政治の実権を握ったのが橘諸兄です。
橘諸兄は、唐で最新の政治を学んだ吉備真備や玄昉をブレーンとして重用します。
740年になると、藤原氏の復権を企んだ藤原広嗣が九州(太宰府)で反乱を起こします(藤原広嗣の乱)。
藤原広嗣の乱は無事に鎮圧されたものの、聖武天皇の視点から見ると、次のような厄災が連続したことになりますね。
- 三世一身の法(土地改革)の失敗
- 信頼する部下の相次ぐ死亡(長屋王、藤原四子)
- 大地震
- 疫病の大流行→日本人の約3分の1が病死
- 藤原広嗣の反乱事件
「大仏造立の詔」で日本を救おう!
対策①短期間で次々に遷都する
「都の位置が悪いかもしれない!?」と考えた聖武天皇(権力者:橘諸兄)は、度重なる不幸をなんとかするために、最初に平城京からの遷都を行います。
まずは平城京(奈良県)から恭仁京(京都府)に遷都。
それでもうまくいかないので、恭仁京から難波宮(大阪府)に遷都。
さらに難波宮から紫香楽宮(滋賀県)へ遷都しますが、結局745年には、平城京に都を戻します。
「くに➡なにわ➡しがらき➡へいじょう」と1文字ずつ増えていく!と覚えると、覚えやすいです。
対策②仏教でなんとか国を安定させる(鎮護国家思想)
聖武天皇は、次々に遷都を繰り返すだけではなく、仏教の力でなんとか国を安定させようとします。
「仏教で国を救おう!」という考えのことを、鎮護国家思想と言います。
聖武天皇は鎮護国家思想にもとづき、まずは741年に国分寺建立の詔を発布。
国分寺建立の詔は、「中央」だけではなく「地方」にも国分寺/国分尼寺と呼ばれるお寺をどんどん建てようという発想です。
国分寺の正式名称は金光明四天王護国之寺ですが、「護国」という言葉からも、鎮護国家思想(困った時の神頼み)がうかがえますね。
なお、国分寺の女性バージョンである国分尼寺の正式名称は、法華滅罪之寺です。
対策③奈良に大仏(盧遮那仏)を建てよう!(大仏造立の詔)
聖武天皇が建てた奈良の大仏の正式名称は、盧遮那仏です。盧遮那仏はテストには出ないので、受験生の方は暗記しないで大丈夫です。安心してください!
実は、奈良の東大寺は、国分寺の総本山(総国分寺)なんです。
東大寺に奈良の大仏(盧遮那仏)を建てることで、聖武天皇はなんとか国を安定させようとしたんですね。
でも、実際に建設作業にあたる一般庶民には、なんのメリットもありません。
庶民は、「なんでこんな巨大な仏像をつくんなきゃいけないんだ!!」と、思いますよね。
ただでさえ日々食べていくのに苦労している一般庶民に大仏建立を納得させるために、ある人気者を起用します。
罪人!行基の起用
全国の国分寺をまわり仏教の教えを説くだけではなく、病人の看病にも熱心だった行基は一般庶民から大人気でした。
行基は国から正式に認められていない僧(私度僧)だったので、厳密には罪人なのですが「背に腹はかえられない」ということで、一般庶民からの反発を抑えるため行基を大仏造立の責任者に抜擢したのです。
これが743年の大仏造立の詔です(墾田永年私財法の発布と同じ年ですよ!)。
奈良の大仏を建てる一大プロジェクトはこの後約10年間続き、752年になってようやく完成します。
この約10年の間、一般庶民は、自分の生活とはあまり関係のない公共事業に付き合わされたのです。
国分寺建立の詔について書かれた史料と現代語訳
ここからは、国分寺建立の詔について書かれた史料と現代語訳を見ていきます。
入試でも頻出な重要項目ですので、確認していきましょう!(といっても、全てを理解する必要はないので、まずは黄色マーカー部分を中心に確認してください。)
(天平十三年三月)乙巳、詔して曰はく、「朕薄徳を以て忝く重任を承け、未だ政化弘まらず。寤寐に多く慚づ。……頃者、年穀豊かならず、疫癘頻りに至る。慙懼交々集りて、唯り労して己を罪す。是を以て広く蒼生の為に遍く景福を求む。故に前年駅を馳せて天下の神宮を増し飾へ、去歳普く天下をして釈迦牟尼仏の尊像高さ一丈六尺なる者各一鋪を造り、幷せて大般若経各一部を写さしむ。今春より巳来、秋稼に至るまで、風雨序に順ひ、五穀豊穣なり。……宜しく天下諸国をして各敬みて七重塔一区を造り、幷せて金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。朕又別に擬りて、金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各一部を置かしめむ。冀ふ所は、聖法の盛なること、天地とともに永く流へ、擁護の恩、幽明に被らしめて恒に満たむことを。其れ造塔の寺は、また国の華たり。必ず好処を択びて、実に長久にすべし。……又国毎の僧寺には封五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町。僧寺には必ず廿僧有らしめ、其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為し、両寺相共に宜しく教戒を受くべし。……」と。
『続日本紀』
【現代語訳】(741年)3月24日、聖武天皇が詔の中で次のように述べられた。
「私は徳が薄い身でありながら天皇という重い任についたが、いまだに民を教え導くことができず、日夜恥ずかしい思いをしている。
……近年は、穀物の実りが豊かでなく、疫病も流行っている。これも不徳の致すところと恥じ、自分を責めさいなむばかりであった。そこで、広く民のために幸福を求めたいと思った。それゆえ前年、諸国に駅馬を走らせて神社の修造を命じ、像高一丈六尺の釈迦如来像一体をつくらせ、大般若経各一部を写させたのである。それによって、今年は春から秋まで天候は順調で穀物も豊作だった。
……諸国に命じて、それぞれの国に七重塔一基を建立し、金光明最勝王経と妙法蓮華経の各一部を書写させよ。それとは別に、私自身は金字で金光明最勝王経を書写して、諸国の塔ごとに一部ずつ納めようと思う。願うところは、この造塔と写経の功徳によって、仏法の繁栄が天地とともに永く続き、仏の加護が現世来世ともにいつまでも満ちているように、ということである。塔をもつ寺はそれぞれの国の華である。必ずよい場所を選んでいつまでも衰えないようにせよ。
……また、各国の僧寺(国分寺)には封戸50戸、水田10町を、尼寺(国分尼寺)には水田10町を寄進せよ。僧寺には必ず僧20人を置き、金光明四天王護国の寺と名づけ、尼寺には必ず尼僧10人を置き、法華滅罪の寺と名づけ、両寺ともに仏の教えと戒律を伝えよ。……」と。
現代語訳からも、聖武天皇の苦悩がひしひしと伝わってきますね。。
史料の黄色マーカー部分から、国分寺建立の詔であることが分かります。
大仏造立の詔について書かれた史料と現代語訳
次に、大仏造立の詔について書かれた史料と現代語訳を見ていきます。
こちらも入試でよく出題されるので、しっかり確認しておきたいですね!
(天平十五年)冬十月辛巳、詔して曰はく、「……粤に天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏の金銅像一驅を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。夫れ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る。事や成り易き、心や至り難き。……是の故に、知識に預かる者は、懇に至誠を発こさば、各介なる福を招かむ。宜しく日毎に廬舎那仏を三拝すべく、自らまさに念を存ちて、各廬舎那仏を造るべし。如更に、人情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣にこれを聴せ。国郡等の司、此の事に因りて百姓を侵し擾まし、強ひて収斂めしむること莫れ。遐邇に布告して朕が意を知らしめよ。」と。
『続日本紀』
【現代語訳】(743年)冬10月15日、聖武天皇が詔の中で次のように述べられた。
「……天平十五年十月十五日をもって、私は菩薩の大願を立てて、廬舎那仏の金銅像一体をお造りすることにした。国中の銅のすべてを使って仏像を鋳造し、大きな山を削って仏殿を構え、その功徳を広く世界におよぼして、私ともどもに仏のご利益を受けて、ともに悟りを開くようにしよう。そもそも、この国で富みを持つ者は私であり、権力を持つ者も私である。この富と権力をもってこの大仏を造ろうとすれば、そのこと自体はたやすいが、真心はこもらないことになる。
……そのため、仏像を造るために協力する信者は、心をこめて至誠を尽くすならば、大いなる幸福を招くだろう。毎日廬舎那仏を三拝し、つねに心に仏を念じて廬舎那仏を造るようにせよ。もし一枝の草や一つかみの土のように、わずかな物でも寄付して仏像の造立を助けたいという者がいたら、これを許可せよ。だからといって、国司や郡司たちはこの造立事業を理由に庶民たちの生活を侵し、困らせ、収奪してはならぬ。全国にそのことを告げて、私の真意を知らせるようにせよ。」と命じられた。
一つ前の「国分寺建立の詔」と見比べると、この「大仏造立の詔」ではだいぶ雰囲気が変わって、聖武天皇の力強い言葉が述べられていますね。
黄色マーカー部の、「廬舎那仏の金銅像をお造りすることにした。」という部分から、この史料が大仏造立の詔であることが分かります。
この大仏造立の詔が発令されたことで、奈良の大仏が造られることになります。
「国分寺建立の詔」、「大仏造立の詔」の一問一答!
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1.国分寺建立の詔や、大仏造立の詔が発布された当時の天皇は( )である。[同志社大:改題]
2.国分寺建立の詔は西暦( A )年に、大仏造立の詔は西暦( B )年に出された。[関西大:改題]
3.大仏造立の詔と同年に( )が発令された。[立教大]
4.国分寺建立の詔や、大仏造立の詔についても記載のある、奈良時代の基本史料は何か?[青山学院大:改題]
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